シスレーが描き続けたモレ・シュル・ロワン 逆境の中でも揺るぎない静寂と美しさ
一回目が三角関係、二回目が四角関係と激しい恋のお話だったので、今回は、一服の清涼剤のような、モレ・シュル・ロワンのシスレーの絵について、主題となった穏やかな風景の中に佇みながら、語ってみようと思う。
パリ・リヨン駅から列車で約50分。12世紀の城壁に囲まれた町、モレ・シュル・ロワン。フォンテーヌブロー宮殿に王室があったころには、シャンパーニュ地方とブルゴーニュ地方の境に位置する要塞として、重要な役割を果たしてきた。かつては20の塔があったそうだが、いまは2つの門の塔が残っている。印象派の画家、アルフレッド・シスレー(Alfred Sisley,1839-1899)が住んだ町としても知られる。

モレ・シュル・ロワンの入り口、サモワ門

左手の建物が、観光案内所。左上の胸像は、アルフレッド・シスレーその人への敬意を表している。右奥に、サモワ門が見える。
この町は小さい。サモワ門を入ってまっすぐ歩くとすぐに広場に突き当たる。この広場の昔ながらの佇まいを残す木組みの家の建物が残っている。メインストリートの大通りを突き抜け、ブルゴーニュ門をくぐれば、もう町の外。石造アーチの橋を渡り切って左に曲がると、川辺に、絶景を望む場所がある。

図1 モレ・シュル・ロワン,油彩,65 x 92 cm ,個人蔵,1891

図1が描かれた付近からの2015年の眺め
ここからは、一枚の絵のような、ロワン川の水辺の風景が素晴らしい。水車のある河畔、流れる水の音、水辺に落ちる柳の葉。春から秋にかけて、一年に一度は訪れたくなる場所だ。川は工事の手が入っておらず、水は清流。白鳥や水鳥。シスリーも石造アーチの橋と対岸のモレの街を望む、この川岸で何枚か絵を描いたが、その一枚がこの絵(図1)だ。澄み切った空。水面で戯れる光と影。心地良い静けさ。透明感ある華やいだ絵に心癒される。

石橋のアーチの橋からの景色も美しい。

図2 モレの粉ひき小屋 油彩,54 x 73 cm,ボイマンス美術館 ロッテルダム,1883

図3 モレの橋,油彩, 65 x 92 cm ,オルセー美術館,1893
アルフレッド・シスレーは、パリの裕福な実業家の家に生まれたイギリス人。絹を扱う貿易商の父から十分な援助を得ており、貧しい画友たちに援助を惜しまなかった。しかし、普仏戦争勃発(1870年)で財産すべてを失い、父の援助もなくなり、突如、絶望的な貧困生活に陥る。後半生、他の印象派画家たちが次々と成功していくなか、同じく印象派の創始に参加したシスレーだけが、最後まで、金にも名声にも縁がなかった。

図4 授業,1871年ごろ,個人蔵,(珍しく風景画でない絵があったので紹介する)
それでも地道に、黙々と、イル・ド・フランスのセーヌ河畔の村々を転々としながら、風景を描いた。生涯、ただただセーヌの水辺と空を、画風の起伏も冒険もないまま、ほとんど一人で描き続けた。シスレーの900点近い油彩作品のうち大部分は、風景を題材にした穏やかな風景画で、戸外で制作したと見られる。他の印象派の画家の多くが、後に印象派の技法を離れたなかで、シスレーは終始一貫、印象派画法を保ち続けた。
印象派の父と言われたピサロは、マチスに印象派の典型的画家は誰かと問われ、迷わず「シスレーです」と答えたという(p16,1992オルセー美術館等シスレー展カタログより)。
パリの西側地域を転々としていたシスレーは1882年9月からモレに住んだ。1886年モレ近郊のヴヌーに移り住んだが、1889年11月にまたモレに住み始める。(前述のカタログ年表で確認p276-281)趣のあるモレの街並みに惹かれ、しばしばロワン川のほとりを描いた。作品を売って生活しなければいけなくなっていたが、作品はなかなか売れず、以後死ぬまで困窮した中で生活した。
シスレーは、1893年から翌年の1894年にかけて、この町のノートルダム教会を連作で14点(1893年に5点、1894年に8点制作)描いている。ちょうど、印象派を代表する画家、クロード・モネがルーアンの大聖堂を描いていたころの話だ。田舎の教会に美しさを見出し、徹底して描き続けた。12世紀から15世紀にかけて造られたという、この教会は今も、絵の当時とあまり変わらない姿を残している。

図5 朝の日差しを浴びるモレの教会 , 80×65cm,油彩,ヴィンタートゥール美術館(スイス),1893

図6モレの教会, 100×81cm,パリ・プチ・パレ美術館,1894

実際の最近のモレの教会

図7 同じ教会でも落ち着いた色のこんな絵もある。
シスレーの描いた教会の隣には、15世紀に建てられたという歴史のある古い建物がある。ここは、昔ながらの飴を作り続けるお菓子屋さん。1683年から修道女らがこの飴を作り始めた。自然な大麦から作られる贅沢な甘味は、歴代の王族をも魅了したという。現在はこの町の銘菓になっている。シスレーが口にしたこともあったのだろうか。
シスレーが晩年貧しい生活を送った彼の住居兼アトリエもまた、教会から遠くない場所にある。シスレーは死ぬまで所有者になることができず、公開はされていないが、プレートが掲げられている。1897年にはパートナーのウジェニーとイギリスを訪れ、結婚した。ウジェニーは彼によく尽くし、彼も愛妻家だったそうだ。そのウジェニーが1898年亡くなる。それから4か月後の1899年1月29日、シスリーは、癌に冒され、ここで、ひっそりと59年の生涯を閉じた。

オーギュスト・ルノワール,「シスレーの家庭」油彩,75 x 105 cm,ドイツ・ケルン・Wallraf-Richartz美術館,1868(若いころは裕福だったので、このように肖像画を描いてもらったりしてたようだ)
クロード・モネが駆けつけ、そのあまりの貧しさを嘆いたという逸話も残っている。フランスの市民権を得ようと試みたが、それを得ることもできず、イギリス人のまま死を迎えた。(彼の絵からは、フランスの大地への愛がだれよりも伝わってくるというのに!)

シスレーが住んでいたことを示すプレート

シスレーの元住居兼アトリエ付近の風景

シスレーの元住居兼アトリエ付近で、私なりの絵になる景色を探してみた

図8 モレのタネリー通り、油彩,55 x 38cm,ニューヨーク・個人蔵,1892
今日では、シスレーのモレ・シュル・ロワンを描いた作品は、パリのオルセー美術館やプチ・パレ美術館などで見ることができる。また、モレの町や町はずれに、彼が描いた絵のパネルが設置されている。私は、何度か、シスレーがこの街で絵を描いた場所を紹介したパンフレットを買って、彼の絵のパネルを目指しながら、歩いてみた。

「シスレーの友達」発行のパンフレットにあった地図 パネルのある場所が1-12の数字で示してある。1が教会、6、7付近からロワン川の向こうに中世の街並みを望む絶景の場所。このブログで紹介した図3の絵のパネルは5、図8は2にある。8,9,10,11,12は町から離れていて、人気のない自然の中にある

図9 モレのポプラ並木,パリ・オルセー美術館

図10モレのロワンの運河, 73 x 92 cm パリ・オルセー美術館,1892
ノートルダム教会や彼のアトリエ近くの小路、対岸が見渡せる川の岸辺など見つけやすい場所にもパネルはあるが、林の中とも言えるような、木々に囲まれた場所にパネルを見つけたこともあった。散策するなら穏やかな天気の日に、歩きやすい靴で出かけることを勧める。

この写真は、町はずれのシスレーの絵のパネル。残念ながら風景が絵とまったく同じではなく、せっかくこんなに歩いて探し回って・・・とがっかりすることも。
シスレーのパネルを探せば、彼が絵にしたくなる理想の美しく穏やかな風景を探し回ったことがよく分かる。豊かな感受性と詩情を持ちながら、成功とは縁のなかったシスレー。オルセー美術館の図録を見る限り、初期期のころ以上にシスレーの使う色は晩年、より鮮やかになっているように思える。経済的困窮の中でも揺るぎない明るい静寂さ。そして、また、彼の理想とした風景は、柔らかな光の中では、今も変わらず美しい。どんなに貧しくても、贅沢な一生だったと思わせるほどに。

図11 サン・マメスのロワン河畔の風景 油彩、カンヴァス 鹿児島市立美術館,1881
図1-11 すべてアルフレッド・シスレー作
追記
日本にもシスレーの作品は多くあり、2015年には練馬区美術館でシスレー展が開催された。シスレーの作品は20点あり、すべて日本国内所有のものだったそうである。
メモ パリ・リヨン駅で、MORET VENEUX LES SABLONS駅下車(約50分)。そこから徒歩約1キロ、20分旧市街地に着く。駅を出たら左手にまっすぐの道が旧市街入口のサモワ塔の門につながっている。その門をくぐる手前の左手に観光案内所がある。日本語の散策ルートのパンフレットや地図も配布している。その観光局と同じ建物の中には、その地に縁りのある美術品や陶芸などを紹介する美術館もある。絶景の川辺の原っぱに腰かけ、その景色を堪能しながらサンドイッチを食べてもいい。近くのレストランのテラスから、その景色を堪能しながら、食事するのもまた、格別だ。

主な参考文献

パリ・リヨン駅から列車で約50分。12世紀の城壁に囲まれた町、モレ・シュル・ロワン。フォンテーヌブロー宮殿に王室があったころには、シャンパーニュ地方とブルゴーニュ地方の境に位置する要塞として、重要な役割を果たしてきた。かつては20の塔があったそうだが、いまは2つの門の塔が残っている。印象派の画家、アルフレッド・シスレー(Alfred Sisley,1839-1899)が住んだ町としても知られる。

モレ・シュル・ロワンの入り口、サモワ門

左手の建物が、観光案内所。左上の胸像は、アルフレッド・シスレーその人への敬意を表している。右奥に、サモワ門が見える。
この町は小さい。サモワ門を入ってまっすぐ歩くとすぐに広場に突き当たる。この広場の昔ながらの佇まいを残す木組みの家の建物が残っている。メインストリートの大通りを突き抜け、ブルゴーニュ門をくぐれば、もう町の外。石造アーチの橋を渡り切って左に曲がると、川辺に、絶景を望む場所がある。

図1 モレ・シュル・ロワン,油彩,65 x 92 cm ,個人蔵,1891

図1が描かれた付近からの2015年の眺め
ここからは、一枚の絵のような、ロワン川の水辺の風景が素晴らしい。水車のある河畔、流れる水の音、水辺に落ちる柳の葉。春から秋にかけて、一年に一度は訪れたくなる場所だ。川は工事の手が入っておらず、水は清流。白鳥や水鳥。シスリーも石造アーチの橋と対岸のモレの街を望む、この川岸で何枚か絵を描いたが、その一枚がこの絵(図1)だ。澄み切った空。水面で戯れる光と影。心地良い静けさ。透明感ある華やいだ絵に心癒される。

石橋のアーチの橋からの景色も美しい。

図2 モレの粉ひき小屋 油彩,54 x 73 cm,ボイマンス美術館 ロッテルダム,1883

図3 モレの橋,油彩, 65 x 92 cm ,オルセー美術館,1893
アルフレッド・シスレーは、パリの裕福な実業家の家に生まれたイギリス人。絹を扱う貿易商の父から十分な援助を得ており、貧しい画友たちに援助を惜しまなかった。しかし、普仏戦争勃発(1870年)で財産すべてを失い、父の援助もなくなり、突如、絶望的な貧困生活に陥る。後半生、他の印象派画家たちが次々と成功していくなか、同じく印象派の創始に参加したシスレーだけが、最後まで、金にも名声にも縁がなかった。

図4 授業,1871年ごろ,個人蔵,(珍しく風景画でない絵があったので紹介する)
それでも地道に、黙々と、イル・ド・フランスのセーヌ河畔の村々を転々としながら、風景を描いた。生涯、ただただセーヌの水辺と空を、画風の起伏も冒険もないまま、ほとんど一人で描き続けた。シスレーの900点近い油彩作品のうち大部分は、風景を題材にした穏やかな風景画で、戸外で制作したと見られる。他の印象派の画家の多くが、後に印象派の技法を離れたなかで、シスレーは終始一貫、印象派画法を保ち続けた。
印象派の父と言われたピサロは、マチスに印象派の典型的画家は誰かと問われ、迷わず「シスレーです」と答えたという(p16,1992オルセー美術館等シスレー展カタログより)。
パリの西側地域を転々としていたシスレーは1882年9月からモレに住んだ。1886年モレ近郊のヴヌーに移り住んだが、1889年11月にまたモレに住み始める。(前述のカタログ年表で確認p276-281)趣のあるモレの街並みに惹かれ、しばしばロワン川のほとりを描いた。作品を売って生活しなければいけなくなっていたが、作品はなかなか売れず、以後死ぬまで困窮した中で生活した。
シスレーは、1893年から翌年の1894年にかけて、この町のノートルダム教会を連作で14点(1893年に5点、1894年に8点制作)描いている。ちょうど、印象派を代表する画家、クロード・モネがルーアンの大聖堂を描いていたころの話だ。田舎の教会に美しさを見出し、徹底して描き続けた。12世紀から15世紀にかけて造られたという、この教会は今も、絵の当時とあまり変わらない姿を残している。

図5 朝の日差しを浴びるモレの教会 , 80×65cm,油彩,ヴィンタートゥール美術館(スイス),1893

図6モレの教会, 100×81cm,パリ・プチ・パレ美術館,1894

実際の最近のモレの教会

図7 同じ教会でも落ち着いた色のこんな絵もある。
シスレーの描いた教会の隣には、15世紀に建てられたという歴史のある古い建物がある。ここは、昔ながらの飴を作り続けるお菓子屋さん。1683年から修道女らがこの飴を作り始めた。自然な大麦から作られる贅沢な甘味は、歴代の王族をも魅了したという。現在はこの町の銘菓になっている。シスレーが口にしたこともあったのだろうか。
シスレーが晩年貧しい生活を送った彼の住居兼アトリエもまた、教会から遠くない場所にある。シスレーは死ぬまで所有者になることができず、公開はされていないが、プレートが掲げられている。1897年にはパートナーのウジェニーとイギリスを訪れ、結婚した。ウジェニーは彼によく尽くし、彼も愛妻家だったそうだ。そのウジェニーが1898年亡くなる。それから4か月後の1899年1月29日、シスリーは、癌に冒され、ここで、ひっそりと59年の生涯を閉じた。

オーギュスト・ルノワール,「シスレーの家庭」油彩,75 x 105 cm,ドイツ・ケルン・Wallraf-Richartz美術館,1868(若いころは裕福だったので、このように肖像画を描いてもらったりしてたようだ)
クロード・モネが駆けつけ、そのあまりの貧しさを嘆いたという逸話も残っている。フランスの市民権を得ようと試みたが、それを得ることもできず、イギリス人のまま死を迎えた。(彼の絵からは、フランスの大地への愛がだれよりも伝わってくるというのに!)

シスレーが住んでいたことを示すプレート

シスレーの元住居兼アトリエ付近の風景

シスレーの元住居兼アトリエ付近で、私なりの絵になる景色を探してみた

図8 モレのタネリー通り、油彩,55 x 38cm,ニューヨーク・個人蔵,1892
今日では、シスレーのモレ・シュル・ロワンを描いた作品は、パリのオルセー美術館やプチ・パレ美術館などで見ることができる。また、モレの町や町はずれに、彼が描いた絵のパネルが設置されている。私は、何度か、シスレーがこの街で絵を描いた場所を紹介したパンフレットを買って、彼の絵のパネルを目指しながら、歩いてみた。

「シスレーの友達」発行のパンフレットにあった地図 パネルのある場所が1-12の数字で示してある。1が教会、6、7付近からロワン川の向こうに中世の街並みを望む絶景の場所。このブログで紹介した図3の絵のパネルは5、図8は2にある。8,9,10,11,12は町から離れていて、人気のない自然の中にある

図9 モレのポプラ並木,パリ・オルセー美術館

図10モレのロワンの運河, 73 x 92 cm パリ・オルセー美術館,1892
ノートルダム教会や彼のアトリエ近くの小路、対岸が見渡せる川の岸辺など見つけやすい場所にもパネルはあるが、林の中とも言えるような、木々に囲まれた場所にパネルを見つけたこともあった。散策するなら穏やかな天気の日に、歩きやすい靴で出かけることを勧める。

この写真は、町はずれのシスレーの絵のパネル。残念ながら風景が絵とまったく同じではなく、せっかくこんなに歩いて探し回って・・・とがっかりすることも。
シスレーのパネルを探せば、彼が絵にしたくなる理想の美しく穏やかな風景を探し回ったことがよく分かる。豊かな感受性と詩情を持ちながら、成功とは縁のなかったシスレー。オルセー美術館の図録を見る限り、初期期のころ以上にシスレーの使う色は晩年、より鮮やかになっているように思える。経済的困窮の中でも揺るぎない明るい静寂さ。そして、また、彼の理想とした風景は、柔らかな光の中では、今も変わらず美しい。どんなに貧しくても、贅沢な一生だったと思わせるほどに。

図11 サン・マメスのロワン河畔の風景 油彩、カンヴァス 鹿児島市立美術館,1881
図1-11 すべてアルフレッド・シスレー作
追記
日本にもシスレーの作品は多くあり、2015年には練馬区美術館でシスレー展が開催された。シスレーの作品は20点あり、すべて日本国内所有のものだったそうである。
メモ パリ・リヨン駅で、MORET VENEUX LES SABLONS駅下車(約50分)。そこから徒歩約1キロ、20分旧市街地に着く。駅を出たら左手にまっすぐの道が旧市街入口のサモワ塔の門につながっている。その門をくぐる手前の左手に観光案内所がある。日本語の散策ルートのパンフレットや地図も配布している。その観光局と同じ建物の中には、その地に縁りのある美術品や陶芸などを紹介する美術館もある。絶景の川辺の原っぱに腰かけ、その景色を堪能しながらサンドイッチを食べてもいい。近くのレストランのテラスから、その景色を堪能しながら、食事するのもまた、格別だ。

主な参考文献

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