パリ・16区でアルベール・マルケ展 穏やかな風景画 フォーブ時代の裸婦も必見
「アルベール・マルケ」展が、8月21日まで、パリ・16区、パリ市立近代美術館で開催中である。私は、今月、学芸員のソフィー・クレスプさんの説明を聞きながら、展覧会を鑑賞する機会を得た。

市立近代美術館入り口に飾られたポスター
アルベール・マルケ(Albert Marquet, 1875年₋1947年)は、フォーヴィスム(野獣派)に分類される19世紀~20世紀のフランスの画家である。
マルケは、1875年、ボルドーのつつましい家庭に生まれた。1893年、パリの装飾美術学校に学び、続いてエコール・デ・ボザール(官立美術学校)でギュスターヴ・モローの指導を受ける。ここで同窓生の6歳年上のアンリ・マティス(Henri Matisse, 1869年-1954年)、ルオーらと知り合った。特にマティスとは親密だった。
マルケは早い時期に成功に恵まれ、多くのギャラリーから注文を受けた。後にフォーヴィスム(野獣派)と呼ばれる画家グループに加わるが、マルケの作風は、グレーや薄い青を基調とした落ち着いた色彩と穏やかなタッチで、港の風景などを描いた。また、パリ市内のセーヌ河が見渡せるアトリエから、パリの街の風景をたくさん描いている。
ノルマンディーやアルジェリアを含め各地へ旅したが、こうした穏やかな画風が変わることはなかった。アルジェリアでもエキゾチズムには関心がなく、都市の風景や近代的な港が絵の主題であった。
国立西洋美術館やポーラ美術館など日本の美術館もマルケの作品を相当数所蔵している。また、パリやフランス各地の美術館でも、マルケの作品を目にすることがあり、私の中のマルケについてのイメージは、グレーを基調とした、洗練された風景画家であった。

展覧会で私が気に入った作品(現在、年代、タイトルなど調査中。マルケには同じような構図の同じような色彩のパリ・セーヌ河岸の作品がたくさんあります)。雨に濡れた路上、動きのある車の表現が素晴らしいと思う。パリ・セーヌ河沿いの自宅アトリエから描いた風景画がたくさん展示されている。
出典http://kikanboyamagami.com/index.php?%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%B1%E3%81%AE%E7%B5%B5

アルベール・マルケ,オンフルール,1911,65 x 81 cm,モスクワ・プーシキン美術館
出典http://www.haizara.net/~shimirin/nuc/OoazaHyo.php?itemid=2189
展覧会でも、こうしたグレーをベースとした風景画を見ることができる。一方で、フォービズムに影響を受けたとみられる鮮やかな色彩の作品や夜景の作品も目を引いた。

アルベール・マルケ,トゥルービルのポスター,1906年,65.1 x 81.3 cm,ワシントン・ナショナル・ギャラリー
出典http://www.mam.paris.fr/fr/expositions/exposition-albert-marquet-0

アルベール・マルケ,ポン・ヌフ夜景,1938年
出典http://gakakeikaku.blog71.fc2.com/blog-entry-15.html
今回の展覧会で、マルケについての発見は二つあった。一つは、ソフィ―・クレプスさんの話で初めて知ったのだが、マルケは、生涯に渡って左派であった。クレプスさんによると、当時旧ソ連を旅したフランスの著名人は、哲学者のジャンポール・サルトルとマルケだそうだ。
Wikipédiaのフランス語版によると、1938年には彼はナチズムに対抗する団体に参加し、ナチズム反対を表明した。1940年、それに対する報復を恐れ、作品を避難させ、アルジェリアへ。彼のアパートは家宅捜索された。ドイツ軍占領下のフランスで、マルケは、作品のサロンへの出展を拒否した。1942年、アルジェリアで、レジスタンス運動のための競売を手掛けた。1943年にド・ゴール大統領に彼の作品の一つを贈った。
1945年に彼は海軍の公的な画家になった。一方、美術学校のアカデミー教授職の提案に対し、マルケは断るだけでなく、アカデミーの解体及び美術学校の解体を要請した。レジオンドヌール勲章授与も拒否した。
もう一つの発見は、この展覧会の展示室の一番最初の部屋にあった、彼の裸婦作品だった。初期に、マティスのフォービズムの影響下で、描いたものだ。これらの数点の作品は素晴らしかった。1920年結婚したあと、彼は裸婦を描くのを辞めたようだ。彼がこの道を続けていたなら、また別の形で後世に名を遺しただろう、と思った。

アルベール・マルケ,2人の女友達,1912年,油彩,60×92cm、ブザンソン美術博物館
出典«connaissance des arts» avril 2016,vol.747

アルベール・マルケ,野獣派の裸婦(Nu dit fauve) 1898年,73×50cm ボルドー美術館
出典«connaissance des arts» avril 2016,vol.747
もっと知りたい人のために
日本語で書かれたマルケを紹介した「浪速高校美術部OBのサイト」
http://www.geocities.jp/nack735/marquet.html
美術館の公式サイト↓フランス語ですが、15点の展示作品を見ることができます。
http://www.mam.paris.fr/fr/expositions/exposition-albert-marquet-0
参考文献
Marquet,le maitre des demi-teintes in «connaissance des arts» avril 2016,vol.747,P72-77
(展覧会は撮影禁止だったため、出典を明示して、インターネットや雑誌で見た作品を探した。また、このブログで既に紹介したフランスの町トゥルービル、オンフルールをマルケが描いた作品も選んでいる。)

市立近代美術館入り口に飾られたポスター
アルベール・マルケ(Albert Marquet, 1875年₋1947年)は、フォーヴィスム(野獣派)に分類される19世紀~20世紀のフランスの画家である。
マルケは、1875年、ボルドーのつつましい家庭に生まれた。1893年、パリの装飾美術学校に学び、続いてエコール・デ・ボザール(官立美術学校)でギュスターヴ・モローの指導を受ける。ここで同窓生の6歳年上のアンリ・マティス(Henri Matisse, 1869年-1954年)、ルオーらと知り合った。特にマティスとは親密だった。
マルケは早い時期に成功に恵まれ、多くのギャラリーから注文を受けた。後にフォーヴィスム(野獣派)と呼ばれる画家グループに加わるが、マルケの作風は、グレーや薄い青を基調とした落ち着いた色彩と穏やかなタッチで、港の風景などを描いた。また、パリ市内のセーヌ河が見渡せるアトリエから、パリの街の風景をたくさん描いている。
ノルマンディーやアルジェリアを含め各地へ旅したが、こうした穏やかな画風が変わることはなかった。アルジェリアでもエキゾチズムには関心がなく、都市の風景や近代的な港が絵の主題であった。
国立西洋美術館やポーラ美術館など日本の美術館もマルケの作品を相当数所蔵している。また、パリやフランス各地の美術館でも、マルケの作品を目にすることがあり、私の中のマルケについてのイメージは、グレーを基調とした、洗練された風景画家であった。

展覧会で私が気に入った作品(現在、年代、タイトルなど調査中。マルケには同じような構図の同じような色彩のパリ・セーヌ河岸の作品がたくさんあります)。雨に濡れた路上、動きのある車の表現が素晴らしいと思う。パリ・セーヌ河沿いの自宅アトリエから描いた風景画がたくさん展示されている。
出典http://kikanboyamagami.com/index.php?%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%B1%E3%81%AE%E7%B5%B5

アルベール・マルケ,オンフルール,1911,65 x 81 cm,モスクワ・プーシキン美術館
出典http://www.haizara.net/~shimirin/nuc/OoazaHyo.php?itemid=2189
展覧会でも、こうしたグレーをベースとした風景画を見ることができる。一方で、フォービズムに影響を受けたとみられる鮮やかな色彩の作品や夜景の作品も目を引いた。

アルベール・マルケ,トゥルービルのポスター,1906年,65.1 x 81.3 cm,ワシントン・ナショナル・ギャラリー
出典http://www.mam.paris.fr/fr/expositions/exposition-albert-marquet-0

アルベール・マルケ,ポン・ヌフ夜景,1938年
出典http://gakakeikaku.blog71.fc2.com/blog-entry-15.html
今回の展覧会で、マルケについての発見は二つあった。一つは、ソフィ―・クレプスさんの話で初めて知ったのだが、マルケは、生涯に渡って左派であった。クレプスさんによると、当時旧ソ連を旅したフランスの著名人は、哲学者のジャンポール・サルトルとマルケだそうだ。
Wikipédiaのフランス語版によると、1938年には彼はナチズムに対抗する団体に参加し、ナチズム反対を表明した。1940年、それに対する報復を恐れ、作品を避難させ、アルジェリアへ。彼のアパートは家宅捜索された。ドイツ軍占領下のフランスで、マルケは、作品のサロンへの出展を拒否した。1942年、アルジェリアで、レジスタンス運動のための競売を手掛けた。1943年にド・ゴール大統領に彼の作品の一つを贈った。
1945年に彼は海軍の公的な画家になった。一方、美術学校のアカデミー教授職の提案に対し、マルケは断るだけでなく、アカデミーの解体及び美術学校の解体を要請した。レジオンドヌール勲章授与も拒否した。
もう一つの発見は、この展覧会の展示室の一番最初の部屋にあった、彼の裸婦作品だった。初期に、マティスのフォービズムの影響下で、描いたものだ。これらの数点の作品は素晴らしかった。1920年結婚したあと、彼は裸婦を描くのを辞めたようだ。彼がこの道を続けていたなら、また別の形で後世に名を遺しただろう、と思った。

アルベール・マルケ,2人の女友達,1912年,油彩,60×92cm、ブザンソン美術博物館
出典«connaissance des arts» avril 2016,vol.747

アルベール・マルケ,野獣派の裸婦(Nu dit fauve) 1898年,73×50cm ボルドー美術館
出典«connaissance des arts» avril 2016,vol.747
もっと知りたい人のために
日本語で書かれたマルケを紹介した「浪速高校美術部OBのサイト」
http://www.geocities.jp/nack735/marquet.html
美術館の公式サイト↓フランス語ですが、15点の展示作品を見ることができます。
http://www.mam.paris.fr/fr/expositions/exposition-albert-marquet-0
参考文献
Marquet,le maitre des demi-teintes in «connaissance des arts» avril 2016,vol.747,P72-77
(展覧会は撮影禁止だったため、出典を明示して、インターネットや雑誌で見た作品を探した。また、このブログで既に紹介したフランスの町トゥルービル、オンフルールをマルケが描いた作品も選んでいる。)
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