ボナールの三角関係② ル・カネを歩きながら(①から先に読んでください)
ル・ボスケ荘には、妻マルトの希望と医者の勧めもあって、バスタブのある浴室をしつらえた。のちに、連作となる浴室にいる妻をはじめて描いたのは、自殺した愛人をボナールが発見した1925年だったという(図3)。浴槽が石棺のようで、青白く描かれた肌が死体を思わせないこともないと評する批評家もいる。その後も、彼は浴室の妻を描き続けた(図4)。

(図3)浴槽の裸体, 104.8×64.2cm,油彩,ロンドン、テートギャラリー,1925

(図4) 「浴槽の裸婦」,油彩,パリ市立近代美術館,1936-1938

(図5)「フランス窓」または「ル・カネの朝」88.5×113.5cm,油彩,個人蔵,1932
1942年、妻マルト死去。その後も ボナールは、マルトを描き続ける。1947年、ボナールもル・カネで生涯を終え、ル カネにあるNotre Dame des Anges墓地にマルトの傍に眠っている。

(図6)「昼食」油彩,パリ市立近代美術館,1932
残念ながら、ボスケ荘は個人所有で見学不可だが、このル・カネには、世界で初めてのボナールの美術館がある。また、ボナールが絵を描いたと思われる場所に絵のパネルも設置しており、ボナールが見たであろう風景を探しながら坂道を歩いた。ボナールを魅了した南仏の光と自然がここにある。

夏のル・カネは、バカンス客も多い。2月の今なら、ボナールも描いたミモザが咲いているだろう

(図7)「ミモザの見えるアトリエ」油彩,127.5×127.5cm,パリ・ポンピドー・センター国立近代美術館,1939-1946
図1-7は、すべて ピエール・ボナール作。
参考文献 Pierre Bonnard Peintre l’Arcadie,Musée d’Orsay;Hazan,2015(2015年のオルセー美術館「ピエール・ボナール 理想郷を描く」展カタログ)。
ピエール・ボナール フランスのフォントゥネ・オウ・ローズに生まれる。大学に進み法律家を志すが、20歳の時本格的に絵筆をとり、画塾アカデミー・ジュリアン、次いで国立美術学校で学んだ。1888年、ゴーガンの絵画思想をもとに結成したグループ「ナビ派」(預言者の意)のメンバーに加わり、画家のセリュジエ、ヴュイヤール、ドニらと親交を結ぶ。浮世絵の色彩や構図に心酔したボナールは、「日本かぶれのナビ」と呼ばれ、ポスターや装飾美術において才能を発揮した。また,写真技術に影響を受けた画家のひとりである。ボナールの人生で最大の出来事は、妻マルトとの出会いであったと言われるように、作品のテーマを慣れ親しんだ妻との生活の中に求めたことから「親密派」(アンテイミスト)の巨匠と呼ばれている。ナビ派に位置づけられるが、個人的にはヴェルノンに住んでいた時親交のあった、晩年のモネの絵の影響を強く感じる画家である。
追記
私自身は、2014年、ル・カネのボナール美術館で「眠れる美女展」を見学。撮影禁止だったので写真を紹介できないが、川端康成の同名小説のフランス語訳も紹介する果敢な展示でした。また昨年夏もル・カネに訪れ、散策。2015年3月から7月オルセー美術館で開催された「ピエール・ボナール 理想郷を描く」展 も見学した。

(図3)浴槽の裸体, 104.8×64.2cm,油彩,ロンドン、テートギャラリー,1925

(図4) 「浴槽の裸婦」,油彩,パリ市立近代美術館,1936-1938

(図5)「フランス窓」または「ル・カネの朝」88.5×113.5cm,油彩,個人蔵,1932
1942年、妻マルト死去。その後も ボナールは、マルトを描き続ける。1947年、ボナールもル・カネで生涯を終え、ル カネにあるNotre Dame des Anges墓地にマルトの傍に眠っている。

(図6)「昼食」油彩,パリ市立近代美術館,1932
残念ながら、ボスケ荘は個人所有で見学不可だが、このル・カネには、世界で初めてのボナールの美術館がある。また、ボナールが絵を描いたと思われる場所に絵のパネルも設置しており、ボナールが見たであろう風景を探しながら坂道を歩いた。ボナールを魅了した南仏の光と自然がここにある。

夏のル・カネは、バカンス客も多い。2月の今なら、ボナールも描いたミモザが咲いているだろう

(図7)「ミモザの見えるアトリエ」油彩,127.5×127.5cm,パリ・ポンピドー・センター国立近代美術館,1939-1946
図1-7は、すべて ピエール・ボナール作。
参考文献 Pierre Bonnard Peintre l’Arcadie,Musée d’Orsay;Hazan,2015(2015年のオルセー美術館「ピエール・ボナール 理想郷を描く」展カタログ)。
ピエール・ボナール フランスのフォントゥネ・オウ・ローズに生まれる。大学に進み法律家を志すが、20歳の時本格的に絵筆をとり、画塾アカデミー・ジュリアン、次いで国立美術学校で学んだ。1888年、ゴーガンの絵画思想をもとに結成したグループ「ナビ派」(預言者の意)のメンバーに加わり、画家のセリュジエ、ヴュイヤール、ドニらと親交を結ぶ。浮世絵の色彩や構図に心酔したボナールは、「日本かぶれのナビ」と呼ばれ、ポスターや装飾美術において才能を発揮した。また,写真技術に影響を受けた画家のひとりである。ボナールの人生で最大の出来事は、妻マルトとの出会いであったと言われるように、作品のテーマを慣れ親しんだ妻との生活の中に求めたことから「親密派」(アンテイミスト)の巨匠と呼ばれている。ナビ派に位置づけられるが、個人的にはヴェルノンに住んでいた時親交のあった、晩年のモネの絵の影響を強く感じる画家である。
追記
私自身は、2014年、ル・カネのボナール美術館で「眠れる美女展」を見学。撮影禁止だったので写真を紹介できないが、川端康成の同名小説のフランス語訳も紹介する果敢な展示でした。また昨年夏もル・カネに訪れ、散策。2015年3月から7月オルセー美術館で開催された「ピエール・ボナール 理想郷を描く」展 も見学した。
スポンサーサイト
コメント