パリの4つの凱旋門 最古のサン・ドニ門は「王家の墓所」へ一直線に繋がる
フランスの新聞ル・モンドの3月29日付一面に、破壊されたパルミラ遺跡の凱旋門が載っていて、目を引いた。シリアのアサド政権軍は、遺跡都市パルミラを、過激派組織「イスラム国」から奪還し、関係者はパルミラの世界遺産の被害は「修復可能」な程度との見解を示しているようだ。(ドローンが撮影したパルミラ遺跡をyoutubeでどうぞ←。ル・モンドの1面の写真と似ている写真は、産経新聞のこの記事で見ることができる)。
さて、フランス・パリで、凱旋門というと、ほとんどの人がシャンゼリゼ通りとつながるエトワール凱旋門だけを思い浮かべるのではないだろうか。凱旋門とは、軍事的勝利を讃え、その勝利をもたらした将軍や国家元首や軍隊が凱旋式を行う記念のために作られた門のことで、その発祥の歴史は古代ローマ時代まで遡る。

エトワール凱旋門の彫刻

エトワール凱旋門に登り放射状の道路や遠くにモンマルトルを見る
パリ市内には、4つの凱旋門が残っている。エトワール凱旋門、カルーゼルの凱旋門、サン・ドニ門、サン・マルタン門である。パリ近郊を含むイル・ド・フランス地域圏における門と考えれば、これに、オー・ド・セーヌ県デ・ファンスの門を加えて5つと紹介されることも多い。だが、日本語では「パリの第3の凱旋門」「新凱旋門」とも呼ばれるこのグランダルシュ(la Grande Arche)は、門のような形をした高層ビルである。

中央遠景の門のような建物がグランダルシュ
グランダルシュはカルーゼル凱旋門とエトワール凱旋門の2つの門が形成する直線(パリの歴史軸)の延長線に存在し、設計者も、20世紀の「凱旋門」としてヒューマニズムの象徴となることを願って設計したという。人権宣言200周年となる1989年に落成記念式典が行われた。ただ、実際には戦勝を記念して建てられた門ではないので厳密な意味での凱旋門ではない。

南側からサン・ドニ門を見る
4つの門の中でも一番古いサン・ドニ門は、1672年に、ルイ14世の戦勝記念として建築家フランソワ・ブロデル(François Blondel,1618-1686)彫刻家ミシェル・アンギエ(Michel Anguier,1612-1686)によって建てられた、この時代の芸術の代表作である。サン・ドニ門は、1862年には歴史遺産のリストに登録され、1988年に、修復工事に取り掛かった。この門がある場所には、それ以前には、「シャルル5世(在位1364~80年)の壁」の門があった。

サン・ドニ門をさまざまな角度から4枚の写真で



パリは、軍事的防衛のため約7回城壁の構築、取り壊し、再構築を経験してきた。英仏百年戦争(1337~1453年)の脅威から「シャルル5世の壁」が建てられていたが、1670年、ルイ14世のもとで城壁は撤去された。
ちなみに、サン・ドニの名前は、フランスの守護聖人である司教の名である。3世紀にサン・ドニ(聖ドニ)が町で最初の司教となり、パリはキリスト教の都市となった。これは必ずしも平和裏に行われたのではなく、250年頃、サン・ドニと2人の同胞は捕えられ、現在のモンマルトルの丘で斬首刑に処せられた。
サン・ドニと言えば、歴代フランス君主の埋葬地となったサン・ドニ大聖堂が有名である。大聖堂の由来としては、聖ドニの伝説がよく知られている。聖ドニはモンマルトルで、首を刎ねられてもすぐには絶命せず、自分の首を持ってパリ郊外のこの地まで歩き、そこで倒れて絶命したとされる。以後そこがサン・ドニと呼ばれることとなり、教会堂が建てられたのが、現在のサン・ドニ大聖堂の始まりである。

サン・ドニ大聖堂のステンドグラス

サン・ドニ大聖堂の中にあるルイ16世(左)とマリー・アントワネットの彫刻
このサン・ドニ大聖堂とサン・ドニ門、地図で確認すると、約8キロの道のりだが、ほぼ一直線である。これは、「王の道」と呼ばれ、国王や王族がサン・ドニ大聖堂に埋葬される際には、この道を通って行った。
パリで最も歴史のある、この凱旋門を観光する人は、あまりいない。交差点でもあり、地下鉄のストラスブール・サン・ドニ駅、横断歩道もそばにあるため、人や車の往来は激しいが、門に注目せず、忙しそうに通り過ぎる人がほとんどだ。
門の北側の通りには、前回紹介したような、昔ながらの八百屋、魚屋、チーズや生ハムを取り扱う高級フランス食材店やレストランがある。最近では、お洒落なカフェやバーもオープンし始め、夕方には仕事帰りの人たちがグラスを片手に談笑するなど、活気のある地域だ。また、ジャン・リュック・ゴダール監督の「女は女である」(Une femme est une femme、1961年)やクリストフ・オノレ監督の同性愛をテーマにした「愛のうた、パリ」(Les chansons d'amour,2007年)など映画の舞台にもなった。
一方、この辺りは、移民が多く、アジア・アラブ系食料品店もあるなど、さまざまな文化が混在している。日本では危険な地域と紹介されることが多いせいか、日本人はあまり見ない。この門の南側は、今でも娼婦が立っていることも多い。

北側から見たサン・ドニ門。両脇に店が並び、往来も多い
日本では、サン・ドニと言うと、2015年11月18日の武装攻撃の舞台ともなった大聖堂のあるセーヌ・サン・ドニ市を思い浮かべるのかもしれない。ちなみに、サン・ドニ門から2分ほど歩くと、1674年建設のサン・マルタン門もある。カルーゼル門は1808年、エトワール凱旋門は1836年に完成した。

サン・マルタン門

チュイリー公園にあるカルーゼル門。門の向こうにルーブル美術館のガラスのピラミッドが見える

カルーゼル門をアップで。今回写真でほかの門と比べて、カルーゼル門は小さいが美しさ、繊細なレリーフが際立っていることを発見した
参考文献
グランダルシュ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%A5
パリのディオニュシウス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AA%E3%81%AE%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AA%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%82%B7%E3%82%A6%E3%82%B9
サン・ドニ門
https://fr.wikipedia.org/wiki/Porte_Saint-Denis
サン・マルタン門
https://fr.wikipedia.org/wiki/Porte_Saint-Martin
エトワール凱旋門
https://fr.wikipedia.org/wiki/Arc_de_triomphe_de_l%27%C3%89toile
新凱旋門
https://fr.wikipedia.org/wiki/Arche_de_la_D%C3%A9fense
(上記いずれもウィキペディアより)
横浜市立大学エクステンション講座,エピソードで綴るパリとフランスの歴史,第3回パリの城壁の歴史http://linzamaori.sakura.ne.jp/watari/reference/extension3.pdf
さて、フランス・パリで、凱旋門というと、ほとんどの人がシャンゼリゼ通りとつながるエトワール凱旋門だけを思い浮かべるのではないだろうか。凱旋門とは、軍事的勝利を讃え、その勝利をもたらした将軍や国家元首や軍隊が凱旋式を行う記念のために作られた門のことで、その発祥の歴史は古代ローマ時代まで遡る。

エトワール凱旋門の彫刻

エトワール凱旋門に登り放射状の道路や遠くにモンマルトルを見る
パリ市内には、4つの凱旋門が残っている。エトワール凱旋門、カルーゼルの凱旋門、サン・ドニ門、サン・マルタン門である。パリ近郊を含むイル・ド・フランス地域圏における門と考えれば、これに、オー・ド・セーヌ県デ・ファンスの門を加えて5つと紹介されることも多い。だが、日本語では「パリの第3の凱旋門」「新凱旋門」とも呼ばれるこのグランダルシュ(la Grande Arche)は、門のような形をした高層ビルである。

中央遠景の門のような建物がグランダルシュ
グランダルシュはカルーゼル凱旋門とエトワール凱旋門の2つの門が形成する直線(パリの歴史軸)の延長線に存在し、設計者も、20世紀の「凱旋門」としてヒューマニズムの象徴となることを願って設計したという。人権宣言200周年となる1989年に落成記念式典が行われた。ただ、実際には戦勝を記念して建てられた門ではないので厳密な意味での凱旋門ではない。

南側からサン・ドニ門を見る
4つの門の中でも一番古いサン・ドニ門は、1672年に、ルイ14世の戦勝記念として建築家フランソワ・ブロデル(François Blondel,1618-1686)彫刻家ミシェル・アンギエ(Michel Anguier,1612-1686)によって建てられた、この時代の芸術の代表作である。サン・ドニ門は、1862年には歴史遺産のリストに登録され、1988年に、修復工事に取り掛かった。この門がある場所には、それ以前には、「シャルル5世(在位1364~80年)の壁」の門があった。

サン・ドニ門をさまざまな角度から4枚の写真で



パリは、軍事的防衛のため約7回城壁の構築、取り壊し、再構築を経験してきた。英仏百年戦争(1337~1453年)の脅威から「シャルル5世の壁」が建てられていたが、1670年、ルイ14世のもとで城壁は撤去された。
ちなみに、サン・ドニの名前は、フランスの守護聖人である司教の名である。3世紀にサン・ドニ(聖ドニ)が町で最初の司教となり、パリはキリスト教の都市となった。これは必ずしも平和裏に行われたのではなく、250年頃、サン・ドニと2人の同胞は捕えられ、現在のモンマルトルの丘で斬首刑に処せられた。
サン・ドニと言えば、歴代フランス君主の埋葬地となったサン・ドニ大聖堂が有名である。大聖堂の由来としては、聖ドニの伝説がよく知られている。聖ドニはモンマルトルで、首を刎ねられてもすぐには絶命せず、自分の首を持ってパリ郊外のこの地まで歩き、そこで倒れて絶命したとされる。以後そこがサン・ドニと呼ばれることとなり、教会堂が建てられたのが、現在のサン・ドニ大聖堂の始まりである。

サン・ドニ大聖堂のステンドグラス

サン・ドニ大聖堂の中にあるルイ16世(左)とマリー・アントワネットの彫刻
このサン・ドニ大聖堂とサン・ドニ門、地図で確認すると、約8キロの道のりだが、ほぼ一直線である。これは、「王の道」と呼ばれ、国王や王族がサン・ドニ大聖堂に埋葬される際には、この道を通って行った。
パリで最も歴史のある、この凱旋門を観光する人は、あまりいない。交差点でもあり、地下鉄のストラスブール・サン・ドニ駅、横断歩道もそばにあるため、人や車の往来は激しいが、門に注目せず、忙しそうに通り過ぎる人がほとんどだ。
門の北側の通りには、前回紹介したような、昔ながらの八百屋、魚屋、チーズや生ハムを取り扱う高級フランス食材店やレストランがある。最近では、お洒落なカフェやバーもオープンし始め、夕方には仕事帰りの人たちがグラスを片手に談笑するなど、活気のある地域だ。また、ジャン・リュック・ゴダール監督の「女は女である」(Une femme est une femme、1961年)やクリストフ・オノレ監督の同性愛をテーマにした「愛のうた、パリ」(Les chansons d'amour,2007年)など映画の舞台にもなった。
一方、この辺りは、移民が多く、アジア・アラブ系食料品店もあるなど、さまざまな文化が混在している。日本では危険な地域と紹介されることが多いせいか、日本人はあまり見ない。この門の南側は、今でも娼婦が立っていることも多い。

北側から見たサン・ドニ門。両脇に店が並び、往来も多い
日本では、サン・ドニと言うと、2015年11月18日の武装攻撃の舞台ともなった大聖堂のあるセーヌ・サン・ドニ市を思い浮かべるのかもしれない。ちなみに、サン・ドニ門から2分ほど歩くと、1674年建設のサン・マルタン門もある。カルーゼル門は1808年、エトワール凱旋門は1836年に完成した。

サン・マルタン門

チュイリー公園にあるカルーゼル門。門の向こうにルーブル美術館のガラスのピラミッドが見える

カルーゼル門をアップで。今回写真でほかの門と比べて、カルーゼル門は小さいが美しさ、繊細なレリーフが際立っていることを発見した
参考文献
グランダルシュ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%A5
パリのディオニュシウス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AA%E3%81%AE%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AA%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%82%B7%E3%82%A6%E3%82%B9
サン・ドニ門
https://fr.wikipedia.org/wiki/Porte_Saint-Denis
サン・マルタン門
https://fr.wikipedia.org/wiki/Porte_Saint-Martin
エトワール凱旋門
https://fr.wikipedia.org/wiki/Arc_de_triomphe_de_l%27%C3%89toile
新凱旋門
https://fr.wikipedia.org/wiki/Arche_de_la_D%C3%A9fense
(上記いずれもウィキペディアより)
横浜市立大学エクステンション講座,エピソードで綴るパリとフランスの歴史,第3回パリの城壁の歴史http://linzamaori.sakura.ne.jp/watari/reference/extension3.pdf
スポンサーサイト