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2016/03/29

パリの4つの凱旋門  最古のサン・ドニ門は「王家の墓所」へ一直線に繋がる

  フランスの新聞ル・モンドの3月29日付一面に、破壊されたパルミラ遺跡の凱旋門が載っていて、目を引いた。シリアのアサド政権軍は、遺跡都市パルミラを、過激派組織「イスラム国」から奪還し、関係者はパルミラの世界遺産の被害は「修復可能」な程度との見解を示しているようだ。(ドローンが撮影したパルミラ遺跡をyoutubeでどうぞ←。ル・モンドの1面の写真と似ている写真は、産経新聞のこの記事で見ることができる)。

  さて、フランス・パリで、凱旋門というと、ほとんどの人がシャンゼリゼ通りとつながるエトワール凱旋門だけを思い浮かべるのではないだろうか。凱旋門とは、軍事的勝利を讃え、その勝利をもたらした将軍や国家元首や軍隊が凱旋式を行う記念のために作られた門のことで、その発祥の歴史は古代ローマ時代まで遡る。

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エトワール凱旋門の彫刻

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エトワール凱旋門に登り放射状の道路や遠くにモンマルトルを見る


 パリ市内には、4つの凱旋門が残っている。エトワール凱旋門、カルーゼルの凱旋門、サン・ドニ門、サン・マルタン門である。パリ近郊を含むイル・ド・フランス地域圏における門と考えれば、これに、オー・ド・セーヌ県デ・ファンスの門を加えて5つと紹介されることも多い。だが、日本語では「パリの第3の凱旋門」「新凱旋門」とも呼ばれるこのグランダルシュ(la Grande Arche)は、門のような形をした高層ビルである。

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中央遠景の門のような建物がグランダルシュ

 グランダルシュはカルーゼル凱旋門とエトワール凱旋門の2つの門が形成する直線(パリの歴史軸)の延長線に存在し、設計者も、20世紀の「凱旋門」としてヒューマニズムの象徴となることを願って設計したという。人権宣言200周年となる1989年に落成記念式典が行われた。ただ、実際には戦勝を記念して建てられた門ではないので厳密な意味での凱旋門ではない。

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南側からサン・ドニ門を見る

 4つの門の中でも一番古いサン・ドニ門は、1672年に、ルイ14世の戦勝記念として建築家フランソワ・ブロデル(François Blondel,1618-1686)彫刻家ミシェル・アンギエ(Michel Anguier,1612-1686)によって建てられた、この時代の芸術の代表作である。サン・ドニ門は、1862年には歴史遺産のリストに登録され、1988年に、修復工事に取り掛かった。この門がある場所には、それ以前には、「シャルル5世(在位1364~80年)の壁」の門があった。

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サン・ドニ門をさまざまな角度から4枚の写真で

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 パリは、軍事的防衛のため約7回城壁の構築、取り壊し、再構築を経験してきた。英仏百年戦争(1337~1453年)の脅威から「シャルル5世の壁」が建てられていたが、1670年、ルイ14世のもとで城壁は撤去された。

 ちなみに、サン・ドニの名前は、フランスの守護聖人である司教の名である。3世紀にサン・ドニ(聖ドニ)が町で最初の司教となり、パリはキリスト教の都市となった。これは必ずしも平和裏に行われたのではなく、250年頃、サン・ドニと2人の同胞は捕えられ、現在のモンマルトルの丘で斬首刑に処せられた。

 サン・ドニと言えば、歴代フランス君主の埋葬地となったサン・ドニ大聖堂が有名である。大聖堂の由来としては、聖ドニの伝説がよく知られている。聖ドニはモンマルトルで、首を刎ねられてもすぐには絶命せず、自分の首を持ってパリ郊外のこの地まで歩き、そこで倒れて絶命したとされる。以後そこがサン・ドニと呼ばれることとなり、教会堂が建てられたのが、現在のサン・ドニ大聖堂の始まりである。

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サン・ドニ大聖堂のステンドグラス

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サン・ドニ大聖堂の中にあるルイ16世(左)とマリー・アントワネットの彫刻

 このサン・ドニ大聖堂とサン・ドニ門、地図で確認すると、約8キロの道のりだが、ほぼ一直線である。これは、「王の道」と呼ばれ、国王や王族がサン・ドニ大聖堂に埋葬される際には、この道を通って行った。
 パリで最も歴史のある、この凱旋門を観光する人は、あまりいない。交差点でもあり、地下鉄のストラスブール・サン・ドニ駅、横断歩道もそばにあるため、人や車の往来は激しいが、門に注目せず、忙しそうに通り過ぎる人がほとんどだ。

 門の北側の通りには、前回紹介したような、昔ながらの八百屋、魚屋、チーズや生ハムを取り扱う高級フランス食材店やレストランがある。最近では、お洒落なカフェやバーもオープンし始め、夕方には仕事帰りの人たちがグラスを片手に談笑するなど、活気のある地域だ。また、ジャン・リュック・ゴダール監督の「女は女である」(Une femme est une femme、1961年)やクリストフ・オノレ監督の同性愛をテーマにした「愛のうた、パリ」(Les chansons d'amour,2007年)など映画の舞台にもなった。

  一方、この辺りは、移民が多く、アジア・アラブ系食料品店もあるなど、さまざまな文化が混在している。日本では危険な地域と紹介されることが多いせいか、日本人はあまり見ない。この門の南側は、今でも娼婦が立っていることも多い。

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北側から見たサン・ドニ門。両脇に店が並び、往来も多い

 日本では、サン・ドニと言うと、2015年11月18日の武装攻撃の舞台ともなった大聖堂のあるセーヌ・サン・ドニ市を思い浮かべるのかもしれない。ちなみに、サン・ドニ門から2分ほど歩くと、1674年建設のサン・マルタン門もある。カルーゼル門は1808年、エトワール凱旋門は1836年に完成した。

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サン・マルタン門


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チュイリー公園にあるカルーゼル門。門の向こうにルーブル美術館のガラスのピラミッドが見える


カルーゼル門
カルーゼル門をアップで。今回写真でほかの門と比べて、カルーゼル門は小さいが美しさ、繊細なレリーフが際立っていることを発見した

参考文献 
グランダルシュ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%A5
パリのディオニュシウス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AA%E3%81%AE%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AA%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%82%B7%E3%82%A6%E3%82%B9
サン・ドニ門
https://fr.wikipedia.org/wiki/Porte_Saint-Denis
サン・マルタン門
https://fr.wikipedia.org/wiki/Porte_Saint-Martin
エトワール凱旋門
https://fr.wikipedia.org/wiki/Arc_de_triomphe_de_l%27%C3%89toile
新凱旋門
https://fr.wikipedia.org/wiki/Arche_de_la_D%C3%A9fense
(上記いずれもウィキペディアより)

横浜市立大学エクステンション講座,エピソードで綴るパリとフランスの歴史,第3回パリの城壁の歴史http://linzamaori.sakura.ne.jp/watari/reference/extension3.pdf
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2016/03/20

春を告げる苺ガリゲット 王妃の帽子シャルロットを作る

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 パリ・10区サン・ドニ門の北側には、野菜や果物を売る店が並んでいる。イチゴの旬にはまだ遠いはずだが、ここの八百屋では、最近、ガリゲット(Gariguette)というフランス産のイチゴが2パック(250グラム×2)、2ユーロ(日本円換算約260円)で売っていた(2016年3月中旬現在)

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サンドニ門近くの八百屋が並ぶ通り

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サンドニ門

 在庫、値段は日々変動するが、ここではしばしば格安の野菜や果物に遭遇する。ガリゲットのイチゴは、小さいが、味と香りがよく、毎年買っている。ここまで安いのは旬の季節でも珍しい。

 買ったイチゴのパックの表示には、生産者の顔写真とRougelineと書いてあった。Rougelineは、フランス南西部アキテーヌ地域圏マルマンド(Marmande)市に本拠地のある、1900人の生産者が働く南仏の農業協同組合で、野菜や果物の流通についてはフランス最大手の一つのよう。ハウス栽培にも力を入れている。太陽が降り注ぐ南仏の大地からの贈り物だ。

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イチゴには生産者の顔写真も載っている

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小粒だが、味と香りがよいガリゲット

 たまたま読んでいたフランスの料理雑誌にシャルロットの作り方が載っていて、生まれてはじめて、シャルロットというお菓子を、作ることにした。そのレシピは卵黄を3個使うババロアだったのだが、インターネットで、卵を使わない、イチゴムースとレモンムースのレシピを探して、市販のビスキュイを使って私流のシャルロットに挑戦。

 スーパーで、砂糖、生クリーム(Crème Fleurette)、レモン、市販のビスキュイ、ゼラチンなどを購入。市販のビスキュイを使った場合はオーブンは必要ないが、電動の泡だて器とミキサーが必要である。ちなみに泡立てるレシピで、生クリームと書いてある場合、フランスでは、Crème Fleuretteを買うことを勧める。Elle&Vireというメーカーを使うことが多いが、今回は、yoplaitを使った。

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スーパーで買い揃えた材料。ビスキュイはモノプリブランドのBoudoir(細長く砂糖をまぶしたビスケット)を買ったがBiscuit rose de Reims(ビスキュイ ローズ ド ランス)やBrossardというメーカーのBoudoirなどを使えば、さらに美味しくなるだろう。フランスでは、さまざまなBoudoirが売っている

 また、日本では、粉ゼラチン(商品名;ゼライスなど)が一般的だが、私は、近くのスーパーで粉ゼラチンを見たことがなく、板ゼラチンを使っているが、同じグラム入れていれば、特に問題ないようだ。

 丸い型を持っていないので、型は、1リットルのアイスクリームと350ミリリットルのアイスクリーム箱に流し込んだ。1リットルの方は、イチゴムースが固まった後、レモンのムースを作って流し込み、2層式にしてみた。

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アイスクリームの空箱に流して固めた

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飾り付ける前のムース。こちらはビスキュイを後からジャムを塗ってくっつけた。この作り方だとビスキュイはサクサクしたまま

 シャルロット(Charlotte)は、女性の帽子に見立てた洋菓子。お皿が帽子のつばで、丸いケーキが帽子の頭の部分。そのためリボンがしばしばかかっている。本格的に作るなら丸い型を使った方がいいようだ。

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今回は上の二つの写真のように2つのムースを作ってみた


 シャルロットというお菓子は、イギリスの王、ジョージ3世の御妃、シャルロット王妃にちなんで、19世紀に作られたのが始まりらしい。ブリオッシュまたはパン・ド・ミの生地に、りんごやプラムのような果物をはさんで長時間焼いたお菓子だった。

 1800年に現在のシャルロットに近いレシピが登場する。それは、フランス人シェフ・パティシエ、アントン・カレーム(Marie-Antoine(Antonin)Carême, 1784年- 1833年)が、考案したもので、型の内側にビスケットを型に貼り付け、ババロアを詰めて冷やし固めたもので、「パリ風のシャルロット」と名付けた。のちに、カレームがロシア皇帝アレクサンドル1世の調理場で働いたときに、カレームは、そのお菓子に「ロシア風シャルロット」と名付けた。カーレムは、フランス料理の発展に大きく貢献し、当時は「国王のシェフかつシェフの帝王」と呼ばれていた。

 レモンと苺の二層式にしたのは大正解。白と赤の断面はお祝いにもぴったり。やはりガリゲットが美味しいので、香りが素晴らしく、我ながら大満足だった。

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苺のムースのレシピ
http://www.kyounoryouri.jp/recipe/4126_%E3%81%84%E3%81%A1%E3%81%94%E3%81%AE%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%82%B9.html

レモンのムースのレシピ
http://cookpad.com/recipe/1369508

(ポイント 二層にするためには、一方のムースが固まったあと、もう一方のムースを流し込む)

参考文献
edélices.com  La charlotte, un dessert français ? le 26 juin 2012
http://www.edelices.com/medias/la-charlotte-un-dessert-francais
アントナン・カレーム
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%A0
2016/03/19

ドーヴィル2・「男と女」「サガン」など映画の舞台になったビーチリゾート 

 トゥルーヴィル・ドーヴィル駅Gare de Trouville - Deauville は、木骨造の駅舎が特徴的だ。駅を背に、右(東)に行くとトゥルーヴィル、左(西)に行くとドーヴィル。今回は、左のドーヴィルに行ってみよう。

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トゥルーヴィル・ドーヴィル駅の木骨造の駅舎

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駅のすぐそばにヨットハーバーがある


 ドーヴィルと言うと、クロード・ルルーシュ監督の1966年制作の「男と女」の映画の舞台と紹介されることが多い。ダバダバダ♪という音楽が印象的な映画だ。

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カラフルなパラソルが並ぶドーヴィルのビーチ


 主役のレーサーを演じた男優、ジャン=ルイ・トランティニャン(1930年12月11日-)は、85歳の現在も活躍している。ミヒャエル・ハネケ監督・脚本による「愛、アムール」(仏題:Amour,2012年制作)で主演を務めた。この映画は第65回カンヌ国際映画祭で、最高賞にあたるパルムドールに輝き、トランティニャンもこの映画でセザール賞主演男優賞を獲得した。

 ハネケ監督は「Happy End」をフランス北部の都市カレーで今春撮影すると発表しており、この作品でもトランティニャンは主演を務める。

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ブルーグレーの海が玉虫色に輝いている

 私は、ドーヴィルというと、フランスの小説家のフランソワーズ・サガン(Françoise Sagan、1935年-2004年)の生涯を描いた2008年の映画「サガン 悲しみよこんにちは」を思い出す。女優、シルヴィー・テステュー(Sylvie Testud, 1971年1月17日 - )が演じるサガンにリアリティーがあって、まるで記録映画のようだった。

 サガンの最初の小説「悲しみよこんにちは」(Bonjour Tristesse)は1954年、18歳の頃に出版された。父親の情事に出会った少女を描いたこの小説は、出版と同時に世界的なベストセラーとなり、莫大な富と名声を得る。天賦の才能、ブルジョワ育ち、女性としての魅力。幸運な星の下に生まれ、サガンはすべてを手にした。

 だが、その後の人生は、痛いほどの孤独と隣り合わせだ。お金に寄ってくる友達とギャンブル、ドラッグ、パーティ三昧の日々。サガンは、猫背で、早足、ヘビースモーカーで、大酒飲み。数字に弱いからと、財産も生活費も他人まかせで、見事な浪費を続ける。

 映画の中で、印象に残ったのが、8月8日、ドーヴィルのカジノで、最後のコインを8に賭け、800万フランを手にするシーン。大金を得て、男性二人と車で疾走し、爽快だった。数時間後、彼女は夏に借りていたオンフルール近くの家を買った。だが、幸せそうなシーンは長くは続かない。

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2008年の映画「サガン 悲しみよこんにちは」のドーヴィルのカジノを舞台にしたワンシーン。真ん中の女性がサガンを演じるシルヴィー・テステュー

 自動車事故を起こし、痛みを抑えるためもあって、薬物(鎮痛剤・コカイン・モルヒネ)やアルコールに溺れていく。実際のサガンも、生涯を通じ過度の浪費癖やギャンブル癖が直らず、数百億円も稼いだのに晩年には生活が困窮した。
 さて、ドーヴィルは、トルーヴィルより少し遅れて、19世紀からリゾート地として整備が始まった。鉄道の整備、海水浴ブームによって、貴族やブルジョアが保養に訪れるようになった。土地が売れ、宮殿のような別荘が建ち、カジノやホテル、競馬場が整備された。現在では、アメリカ映画祭など、大きなイベントでも知られる。

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ビーチにある木製の遊歩道「レ・プランシュ」。小屋(キャビン)がずらりと並び、アメリカ映画祭に出席するためにドーヴィルを訪れた映画スターの名前がつけられている

 ノルマンディー様式の木の梁と柱を組み合わせた、どっしりとした建物が建ち並んでいるのが特徴で、統一感がある。


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19世紀末から20世紀初頭にかけて造られたヴィラ(別荘)が通りのあちらこちらで見られる

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ノルマンディーの木骨組みの家で統一された町並み


 1907年に建てられたストラスブルジェ邸(villa Strassburger)は、作家フローベールの所有地だった時期もあった。現在はドーヴィル市に寄贈され、歴史遺産に指定されている。

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ストラスブルジェ邸が作家フローベールの所有地であったことを説明するプレート

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ストラスブルジェ邸


 映画「男と女」の舞台となったホテル「ノルマンディーバリエール」は、この町のランド・マーク的な存在。カジノも経営するバリエールグループの高級ホテル。

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ホテル「ノルマンディーバリエール」の外観。あとの二枚の写真も同じ


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 この「ノルマンディーバリエール」にお邪魔し、コーヒーを飲んだ。朝食の時間帯で、残念ながらレストランに入れずロビーでの一休みとなったが、さすが最高級のホテル、丁寧に対応していただいた。絵画などの調度品を見るだけでも面白い。泊った有名人の写真がたくさん貼られていた。泊ってみるのも素敵だろうな。

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ホテルロビー
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ホテルの中庭
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ホテルの壁に映画俳優など有名人の写真が飾られていた

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ホテルのお手洗いの洗面台


主な参考文献
http://www.lavoixdunord.fr/region/tournage-d-un-film-de-michael-haneke-dans-le-calaisis-ia33b48581n3289804
http://bibliobs.nouvelobs.com/documents/20140710.OBS3429/duras-mon-amour-par-yann-andrea.html
https://fr.wikipedia.org/wiki/Villa_Strassburger
「ノルマンディーバリエール」に泊まった方のブログ
http://ameblo.jp/belle-kaori/entry-11297216636.html

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カフェが営業する建物も木組み

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魚市場までノルマンディー様式の木骨組み建築

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2016/03/19

トゥルーヴィル3 デュラスとヤンの出会いの地

 トゥルーヴィルは、フロベール(Gustave Flaubert/1821-1880)、プルースト(Marcel Proust/1871-1922)、デュラス(Marguerite Duras/1914-1996)などの文豪が愛した地でもあった。

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トゥルーヴィルの町並み

 作家、マルグリット・デュラス(Marguerite Duras/1914-1996)も、1980年、トゥルーヴィルの海岸沿いのマンションに住んでいた。1980年7月、38歳年下の青年、ヤン・アンドレア(Yann Andréa/1952-2014)がデュラスに会いに訪れる。5年間の文通期間を経て、初めて会った二人。内気で傷つきやすい熱狂的なデュラス文学のファンのその青年は、デュラスの最後の愛人になった。

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マルグリット・デュラスとヤン・アンドレア(Sipa)

 ヤンは、デュラスとの16年間を綴った「Cet amour-là」をデュラスの死後1999年に出版。日本でも「デュラス あなたは僕を(本当に)愛していたのですか」(河出書房新社)というタイトルで翻訳されている。その本を元に2001年「デュラス 愛の最終章」(フランス語タイトルCet Amour-là)というフランス映画も作られた。ジャンヌ・モローがデュラスを演じた。ちなみにジャンヌ・モローはデュラス原作の映画「愛人/ラマン」でもナレーションを務めていた。

 2009年、私はヤンの著作も日本語で読み、この映画も見た。歳の差カップルの甘い恋のお話と思ったら大間違い。映画を見ながら思ったのは、「書く」ことも、「愛する」ことも、そして「老いる」ことも、一筋縄ではいかないこと、覚悟がいることだなということだった。

 2014年すなわち、一昨年は、デュラスの生誕100年で、パリ・ポンピドーセンターで展示や講演が開催された。そして、ヤンは同じ年の7月に亡くなっている。今年は、デュラスの没後20年に当たり、フランスでは、インタビュー集などの書籍も出版されている。

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夏のトゥルーヴィルの海岸

参考文献
Yann Andréa,Wikipédia https://fr.wikipedia.org/wiki/Yann_Andr%C3%A9a
2016/03/18

トゥルーヴィル2サヴィニャックのポスター ユーモアとエスプリ

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 現在、トゥルーヴィル=シュル=メール(Trouville-sur-Mer)と言えば、サヴィニャックだろう。フランスのポスター画家、サヴィニャックの作品が至る所にある。

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  レイモン・サヴィニャック(Raymond Savignac)は、パリに生まれ、94歳まで活躍したフランスを代表するポスター画家。日本でも森永チョコレート、サントリーなどのポスターを手掛けまた。そのポスターには、鮮明なユーモアとエスプリが溢れている。
 
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 サヴィニャックが 初めて海を見たのは12歳の時のこと。それは家族とヴァカンスで訪れたノルマンディー地方でのことだった。パリから北西へ約200kmの地に位置するトゥルーヴィルは、美しい景観を持つ保養地として、19世紀から大変な人気を集めていた。
 サヴィニャックは、1940年に結婚したマルセル夫人とともに度々訪れ、 しばらくは パリとトゥルーヴィルを行き来する生活が続いた。 そして、72歳を迎える1979年から トゥルーヴィルに居を移すと、 亡くなるまでの22年間をこの地で過ごした。

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 当時すでにフランスを代表する人気ポスター画家であったサヴィニャックを、トゥルーヴィル市民は喜んで迎えた。さまざまな歓迎イベントが開催され、市からは多くの仕事を依頼された。特に市が依頼したロゴマークのデザインは、青と白だけを使い、透き通るような空と海のイメージを見事に表現したものだった。
 
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トゥルーヴィル市のロゴマーク

 サヴィニャックは公的機関の仕事だけでなく、地元の商店などからも次々に依頼を受け、約30点のポスターを仕上げた。 こうした功績をたたえ、2001年、市は、19世紀後半にヴァカンスに訪れる上流階級の人々のために造られた砂浜の遊歩道(プランシュ/Planches)を、「サヴィニャック散歩道(Promenade Savignac)」と名付け、彼がこれまでに手掛けた多数のポスターで飾った。 サヴィニャックの死後、トゥルーヴィル市は、彼の作品を町のあちこちに復元した。


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この回の5枚の写真はすべてトゥルーヴィルの町中に復元されたサヴィニャックの作品


主な参考文献
メゾン・デ・ミュゼ・デュ・モンド
http://www.mmm-ginza.org/museum/special/backnumber/1107/special01-02.html
レイモン・サヴィニャック ウィキペディア wikipedia.org/wiki/レイモン・サヴィニャック

サヴィニャックについては、日本語の詳しいサイトがたくさんある。
ほぼ日刊イトイ新聞 https://www.1101.com/savignac/
Iemo,フランスのポスター画家レイモン・サヴィニャックを楽しむインテリア https://iemo.jp/2947

2016/03/10

トゥルーヴィル・ドーヴィル1  ブーダンが愛した海

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ウジェーヌ・ブーダン,トゥルーヴィルの海岸,1864,26×48cm,オルセー美術館(パリ)


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ウジェーヌ・ブーダン,トゥルーヴィルの浜辺,1864 – 1865,ナショナル・ギャラリー (ワシントン)

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一昨年夏のトゥルーヴィルの浜辺を撮影(ブーダンを真似して空を広くとってトリミングしてみた)

  トゥルーヴィル=シュル=メール(Trouville-sur-Mer)は、中世から漁港のある小さな漁村だった。
1825年、風景画家のシャルル・モザンがトゥルーヴィルに魅了された。彼はその絵をパリのサロンに展示し、モネ、コロー、ピサロ、ブーダンなどの画家たちや、プルースト、デュマ、フロベールなどの作家たちの好奇心を呼び起こし、今度は彼らがインスピレーションを求めてここにやって来た。(Office de Tourrisme de Trouville-sur-Mer) 

19世紀初めに海水浴がブームとなり、鉄道路線が拡張され、、イル・ド・フランスからの観光客に特に好まれる観光地へと変わった。

 モネも「トゥルーヴィルのロッシュ・ノワール・ホテル」「トゥルーヴィルの浜辺」(いずれも1870年)など、ここでの作品を残した。
でも、寂寥としたノルマンディーの海の雰囲気を一番よく表したのは、ウジェーヌ・ブーダンのような気がする。

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ウジェーヌ・ブーダン,トゥルーヴィルの浜辺 ,1867,63 × 89 cm,国立西洋美術館 東京



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ウジェーヌ・ブーダン,トゥルーヴィルの浜辺,1869,ティッセン=ボルネミッサ美術館

 ブーダンはボードレールやコローから、「空の王者」との賛辞を受けた。確かにブーダンは空の描き方を研究し、空だけを描いた作品もたくさんあって、4年前に、パリ・ジャックマール・アンドレ美術館で開かれたウジェーヌ・ブーダン展にもたくさん展示されていた。

 でも、私がブーダンについての逸話で一番印象に残っているのは、「空」ではなく「海」の話だ。
 
 1898年、ブーダンは74歳。パリで臨終のときを迎えようとしていた。死が近いことを悟ったのだろうか。彼は「海を前にして死にたい」とお願いする。そしてパリから離れたドーヴィルまで連れて行ってもらう。ドーヴィルはトゥルービルまで徒歩10分程度の隣町である。

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トゥルービルの浜辺の日暮れを撮ってみた。約3カ月前


 今なら列車の便が良ければ、パリ・サンラザール駅からトゥルービル・トーヴィル駅まで約2時間だが、当時はもっと時間がかかっただろう。彼は、8月8日海の町、ドーヴィルで死去する。そして、8月12日にパリ・モンマルトルにあるサン・ヴァンサン墓地に埋められた。つまり遺体は、パリまで運ばれたのである。ユトリロなども眠る小さな墓地。ブーダンが妻とともに眠るその墓石は、シンプルで小さかった。

 確かに私も海は好きだ。パリに住んでいるとときどき恋しくもなる。でも、だからといって、「海を見ながら死にたい」そこまでの気持ちになれるだろうか。息も絶え絶えになって、海が見たい、まあ、なんと人騒がせで贅沢な、とも言えるし、海を何度も観察した画家だからこその気概、熱情だったのかもしれない。

 ブーダンがそこまで愛した海。そして、その願いをかなえてくれる人たちがいた、ブーダンはこの海の前で幸せな最期を迎えたのではないだろうか。そう思いながらノルマンディーの海を見ると、寂寥というだけではない、また違った感慨が湧いてくる。


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夕暮れから夜景に変わりつつあるトゥルービルの町

ウジェーヌ=ルイ・ブーダン(Eugène-Louis Boudin, 1824年7月12日 - 1898年8月8日) 19世紀フランスの画家であり、外光派の一人として印象派に影響を与える。青空と白雲の表現に優れ、ボードレールやコローから、「空の王者」としての賛辞を受ける。
 ノルマンディー地方のオンフルールに生まれる。1835年に父親が水夫の家業をやめ、一家をあげてル・アーブルに転居する。父親は 文房具兼額縁・絵画店を開き、成功する。子どものころから父の店を手伝っていたブーダンは、20歳には自分で店を開き、 画材購入に立ち寄るバルビゾン派の画家達と交流を持つようになる。
 絵を描き始め、フランソワ・ミレーの勧めもあって、22歳で、商業の道を辞め、画家になる決心をする。26歳で奨学金を得、パリに学び、 オランダの風景画家ヨハン・バルトルト・ヨンキントと知り合う。 ヨンキントから戸外の制作を勧められ、9年後パリのサロンでデヴュー。 クールベの紹介でボードレールに会い、 彼の好意的な批評がブーダンが世に出るのを助けた。また、1857年にはモネと出会い、モネに屋外で絵を描くことを教える。
1874年の印象派展にブーダンも出展している。1870年代には、ベルギー・オランダと南フランスを旅し、1892年から1895年には、ヴェネチアに滞在している。パリのサロンへの出展を続け、1881年には第3位の賞を獲得し、1889年には金賞を授与された。1892年には、レジオン・ドヌール勲章を受け、ナイトの称号を得ている。1898年にドーヴィルで亡くなった。

2016/03/10

モネの苦難と再生 ヴェトゥイユの自然の中で

ヴェトゥイユ(Vétheuil)という村でバスを降りた。

その村の名前を印象派の画家クロード・モネ(Claude Monet, 1840 - 1926)の絵のタイトルの中で知っていた。
それ以外、何の予備知識もない。次のバスは約1時間後、それが最終バスだ。

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ヴェトゥイユ中心部

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クロード・モネと思われる似顔絵も描かれている

 行けば分かるだろうという期待は、見事に裏切られた。オフィス・ド・ツーリズム(観光案内所)という洒落たものはなく、道行く人もまばら。モネが住んでいた家を探し回るが、「クロード・モネ通り」は見つかったが、家は見つからない。見つけたとしても、公開されているわけでもなく、所有者にとっては、外国人旅行者に家の周りをうろうろされたり、写真を撮られたりするのは、迷惑な話なのかもしれない。
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クロード・モネ通りを示すプレート

昔ながらのたたずまいがそのまま保存されたような村。観光名所らしい場所は、ノートル・ダム教会だけだ。教会の中に入って、目を瞠った。そこには、小さな村の教会ならではの素朴な美しさがあった。ステンドグラスから入る柔らかい日の光の効果もあって、ここなら村人の敬虔な信仰を感じ取れる気がした。時が止まったかのような静寂。私が訪れたことのある小さな教会の中でも、数少ない、穏やかで清廉な気持ちになれる教会だ。

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教会正面の上の方の彫刻が素晴らしかった

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帰ってきてウィキペディアで調べたところ、教会の二つの正面入り口はルネッサンス様式だという


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教会内部の写真を8枚連続で

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教会を出て村の集落を見る

  セーヌ河の近くの原っぱに降りてみた。遠くに先ほどの教会が見えた。何度かシャッターを切った。モネが描いたヴェトゥイユの絵を思い描こうとしたが、思い出せなかった。モネが描いてもおかしくないような景色を求めて、家々の間の路地を歩き回ってもみた。写真を撮る気持ちにはなれる場所は少なかった。

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セーヌ河近くの原っぱから

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集落の中で絵になる景色を探したが、撮影する気になれず、やはり教会を遠くに見るのが一番美しい気がして撮った一枚


あれから半年が過ぎた。少しずつ、ヴェトゥイユに住んだ間のモネについて知ることになった。この地で過ごした1878年からの3年間 ( 1878年8月 – 1881年11月)は、モネの人生の中で、とても重要な変化の時期だったと知る。せっかく行ったのに惜しいことをした。モネはヴェトゥイユ滞在中に 約150もの作品を残している。


 ここに住んだ1878年当時、モネの絵は高くは売れず、経済的に困窮していた。1877年、デパートの経営者で、モネのパトロンだったエルネスト・オシュデ(Ernest Hoschedé)が事業の失敗で破産したため、モネの家族はさらなる困窮状態に陥っていた。モネの妻、カミーユの健康状態が悪いため、エルネストの妻アリス・オシュデが自分の子どもたちと一緒にモネの子どもたちの面倒をみていた。

 1878年(当時モネは38歳)、アリス・オシュデとその子どもたち6人とモネ夫婦、モネの2人の息子は、人口約600人のヴェトュイユ の外れに一軒の家を借り、共同生活を始めた。エルネスト・オシュデは、パリで芸術雑誌を創刊し、自分の絵画コレクションによって経済状況を立て直すことを試みていた。 「モネと不倫関係の噂のあったアリス」とか「アリスの6番目の子どもジャン・ピエール・オシュデはモネの子どもだったと考えてもおかしくない」などという記述も見つけ複雑な気持ちに…。

 1878年夏の終わりモネがヴェトゥイユ到着後すぐに描いたのは、私が感動した教会だった。その後、セーヌ河沿いの風景や果樹園をテーマに絵を描いていく。

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クロード・モネ「ヴェトゥイユ」1879年、油彩 60 x 81 cm、国立ビクトリア美術館 メルボルン


なお、東京国立西洋美術館にある「ヴェトゥイユ」と題する1902年のこの作品は、この地を離れた後、再度同じ場所から描かれた連作の一つである。

 病気がちだったカミーユの健康状態は、次男ミシェル出産後、ますます悪くなっていた。1879年9月5日、妻カミーユが32歳の若さで亡くなる。このときモネは妻のデスマスクを描いている。
 妻を失った悲しみ、経済的困窮、モネにとって最も苦しい日々であったに違いない。凍てついたセーヌ河の寒々とした景色を描いた「霧氷」「流氷」「解氷」などの連作を制作したのも1879年12月から80年にかけてである。

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クロード・モネ「氷」(Les glaçons)1880年,油彩 61 x 100 cm,オルセー美術館 パリ


 モネは1880年のサロンに2点の作品を出品し、1点だけが入選した。そして、作家のエミール・ゾラが編集者を務めるパリの雑誌社で、モネは1880年6月、個展を開催するチャンスを得る。モネにはパリに行くお金すらなかったが、エルネスト・オシュデらがモネの個展に協力し、18点の絵が展示された。この時、2点の絵が売れ、モネの名声は高まった。1881年2月に画商、ポール・デュラン=リュエル(Paul Durand₋Ruel 1831-1921)が14点の絵を購入、ヴェトゥイユ到着から2年半を経てようやく経済的に安定し始める。

  前回このブログで書いたラ・ロッシュ・ギヨンは、ヴェトゥイユの隣町で、車で10分くらいの距離にある。
あの記事の中で紹介した東京国立西洋美術館所蔵のモネの「ラ・ロシュ=ギュイヨンの道」も、このころ描かれた。この絵の色彩も穏やかな中に明るさと華がある。このころから、自然を描くモネの色彩が生命力を感じさせるほどに、より華やかになった気がする。 

「ヴェトゥイユのモネの庭」は、1880年または1881年に描かれた絵である。晴れやかな色彩が印象的だ。ひまわりの黄色と、鉢の青のコントラストが美しい。モネが住んだ家には、セーヌまでのゆるやかな傾斜になっている菜園と庭があった。この子供たちは、ジャン・ピエール・オシュデとミシェル・モネである。階段の一番上にいる女性がアリス・オシュデだろうか。アリスは、1892年、エルネストの死後、正式にモネの妻となった。

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ヴェトゥイユのモネの庭 クロード・モネ 1881年(80?)油彩 150 x 120 cm, ナショナル・ギャラリー ワシントン


モネの絵と自分の写真の撮った写真を比べて驚いた。20枚足らずの自分で撮った写真のうち、モネの絵に描かれた教会とに向きが似ているものがあった。モネが村に到着してすぐに描いた教会の絵だ。当時から、この教会はあまり変わっていないということだろう。

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クロード・モネ,ヴェトゥイユの教会,油彩,65×55、スコットランド・ナショナル・ギャラリー,1878

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私も教会の写真を撮っていた。この教会の写真がモネの絵とかなり似通っていて驚いた。


何も調べずに行くのも悪くない。また、いつか、夏にヴェトゥイユに行ってみよう。今度は、150点のうち、お気に入りのモネの絵をカラー・コピーして、モネが描いた風景を探してみよう。ここなら、モネが描いた頃とあまり変わらない風景が残っている気がする。

メモ ヴェトゥイユ(グーグル・マップではヴェタイユと表記)は、イル・ド・フランス地方ヴァル・ドワーズ(Val-d'Oise)県にある。現在人口約800人。パリから57㎞。一番近い駅はマント・ラ・ジョリーMantes-la-Jolieでここから約12㎞である。公共交通機関でのアクセスは、ラ・ロッシュ・ギヨンに準じる。ヴェトゥイユのノートル・ダム教会は、教会は12世紀から16世紀にかけて建てられ、初期ゴチック様式、ゴチック・フランボワイヤン様式、16世紀 イタリアのルネッサンス様式などが混ざっている。1840年に歴史遺産に指定された。

参考文献
P170-182,Ségolène le Men,Monet,Editions Citadelles & Mazenod,2010 
P156-158,Richard Thomson「Vetheuil  1878-1881」in dir.Henri Bovet,Claude Monet 1840-1926,Réunion des musées nationaux,Musée d’Orsay ,2010
p70-71,Isabelle Cahn,comment regarder Monet,Hazan, 2010
https://fr.wikipedia.org/wiki/V%C3%A9theuil
愛好家によるモネの絵に関して素晴らしいブログがある。この時期に描かれたモネの絵をネットで見ることができる↓。
http://monetlog.blogspot.fr/2013/06/blog-post_15.html
2016/03/08

中世とルネッサンスの融合 ラ・ロッシュ・ギヨン城の塔からのパノラマ


 石灰岩の断崖にそびえる中世の塔と要塞、その下に建設されたルネッサンスの城、ほかでは見られない不思議な景観が、セーヌ河が蛇行する広大なヴェクサン・フランセ地方自然公園の中に存在する。ラ・ロッシュ・ギヨン(La Roche-Guyon)村。イル・ド・フランス地域圏で唯一、フランスの最も美しい村に加盟する村でもある。ここは、ノルマンディー地方との境に位置するヴァル・ドワーズ(Val-d'Oise)県、パリから車で約1時間20分、モネの家で有名なジヴェルニーからだと9キロ、車で約10分程度の場所にある。

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 この場所に魅了された芸術家は少なくない。風景画家、ユベール・ロベール(Hubert Robert 1733-1808)が18世紀にラ・ロッシュ=ギヨンの丘や洞窟城を描いた。
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ユベール・ロベール「ラ・ロッシュ・ギヨン城の眺め」油彩,ルーアン美術館(フランス)

 印象派の画家カミーユ・ピサロ (Camille Pissarro、1830-1903)もこの村を描いた作品を残している。

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カミーユ・ピサロ「ラ・ロッシュ・ギヨンの広場」 1867年,50×61cm,油彩,ベルリン国立美術館


 1885年には、印象派のルノワールがここで作品を制作。ポスト印象派のポール・セザンヌ (Paul Cézanne、1839-1906)もそれに加わった場所でもある。

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ポール・セザンヌ「ロッシュ・ギヨンの迂回路」1885,油彩,64.2 x 80 cm,スミス・カレッジ・ミュージアム・オブ・アート(アメリカ合衆国)


 印象派を代表する画家、クロード・モネ(Claude Monet, 1840年 - 1926年)の「ラ・ロシュ=ギュイヨンの道」は東京国立西洋美術館の所蔵となっている。

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クロード・モネ「ラ・ロシュ=ギュイヨンの道」1880年,油彩,60.5 x 73 cm,東京国立西洋美術館

 ジョルジュ・ブラック(Georges Braque, 1882 - 1963)は、1909年に、ラ・ロッシュ・ギヨン城の連作を描き、2014年パリ・グラン・パレで開かれたブラックの展覧会には、この連作が展示された。

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 1190年ごろ、長男を代々ギー(Guy)と名付ける領主ラ・ロッシュ(La Roche)によって、崖の上に主塔と要塞が建てられた。ちなみに、ラ・ロッシュ=ギヨン(La Roche-Guyon) の意味は 古いフランス語で、“ギーの岩”である。城は16世紀シリ―(Silly)家、17世紀プレシ・リアンクール(Plessis-Liancourt)家の所有を経て、婚姻によりロシュフコー(Rochefoucauld)家の所有となり、18世紀に城は大きく拡大され、幾何学模様の菜園も整備された。現在は、公施設法人が管理しており、城は1994年から見学可能になった。
 城を見学してみた。
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城の階段の天井を見上げた

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城の内部

 綺麗に手入れされてはいるが、ベルサイユ宮殿やフォンテーヌ・ブロー城と比べると豪華さには欠ける。家具が多くない部屋も多い。しかし、それだからこそかもしれない。ダンヴィル公爵(Le duc d'Enville)の夫人のサロンにある4枚のタピスリーの鮮やかさが際立っている。1767年に夫人自ら注文したゴブラン織りである。旧約聖書の「エステル記」が描かれている。1769年からこの城に置かれていたが、城は1987年にこのタピスリーを手放していたが、2000年に競売に出そうになったところをフランス政府が先買権を使って買い戻した。

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タピスリーを見学する家族

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「エステルの身支度」

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「エステルの戴冠式」

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「モルデカイの軽蔑」

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「ハマンの有罪判決」

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 さらに、白亜の岩の中に掘られた階段を通って、中世の主塔に向かう。途中には穴だらけの鳩小屋もある。 

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階段途中に外が見える場所も


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階段の途中で見ることができる景色

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穴がたくさんの鳩小屋

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さらに洞窟の中の階段を登る

250段の階段を登ると、広大な平原をゆるやかに流れるセーヌ、村の家々の屋根、城が所有する幾何学模様の菜園が眼下に広がった。

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カメラに収まり切れないパノラマを5枚の写真でどうぞ

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ビデオでもどうぞ。←こちらをクリックしていただけると、15秒のこの塔からのビデオが見れます。

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城を降りてくる途中の窓から

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城を降りる途中も、継ぎ足して作られた建物を見学するのが興味深い


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城の別棟の建物の中で、アーティストの作品を展示していた。白い壁に作品が映える(次の写真も)

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村にあるレストランが賑わっていた

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中世の塔をさらにその上から見る

ラ・ロッシュ・ギヨン城の情報 
< 入場料 >
大人 : 7,80 €
13-18歳, 学生: 4,80 €
< 開館時間 >
2016年3月25日まで毎日10:00-17:00 
2016年3月26日~10月30日月曜~金曜 10:00-18:00、土日祝日 10:00-19:00
2016年10月31日~11月27日 毎日10:00-17:00
2016年11月28日~2017年2月3日閉館
 
パリからの公共交通機関でのアクセス : 平日は電車でサン・ラザール駅からRERイル・ド・フランス L線 で Mantes-la-Jolie下車。TIM バス95-11または95-42。2016年5月15日〜9月25日まで日曜のみヴェクサン・フランセ地方自然公園のBaladobusがPontoise、Cergy-Prefectureから出ている(4ユーロ)。


参考文献
http://www.larocheguyon.fr/
https://fr.wikipedia.org/wiki/Ch%C3%A2teau_de_La_Roche-Guyon
http://www.chateaudelarocheguyon.fr/content/heading14634/content15776.html

フランス語ですが、城の写真だけでも素敵です↓
http://www.montjoye.net/chateau_de_la_roche_guyon

2016/03/06

ノルマンディーの宝石 オンフルール3  丘の上から鐘楼のある町を見下ろす 

 さて、オンフルールのウジェーヌ・ブータン美術館から遠くない場所にフランスの作曲家、エリック・サティ(Erik Satie、1866 - 1925)の家があり、公開されている。サティは革新的な音楽家で、現代音楽の祖として評価が高く、数多くの作曲家がサティによる開眼を公言している。その名を聞いてピンと来なくても、パリ音楽院在学中に発表した「ジムノペディ」を聞けば、ああという人が多いだろう。

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サティが生まれた家であることを示すプレート


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サティの家の展示物を写真3枚で


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 ここはサティの家の復元と言うより、テーマパークのように自動でピアノが鳴ったり、展示物が動いたり、現代アートと現代の技術が融合した博物館。「ジムノペディ」を聞きながら、このビデオで、その雰囲気をどうぞ。

 旧港には、歴史博物館 海洋博物館もある。

 14世紀に建てられたサンテティエンヌ教会内(オンフルールで最古)にあるのが海洋博物館。模型や油絵、版画、彫刻、昔の船にまつわる道具などが展示され、18、19世紀の漁船や貿易船の様子を知ることができる。

 パリの16区シャイヨー宮内の国立海洋美術館に船関係の仕事をしている日本人を連れて行ったら、日本語の説明がなくても、喜んでもらえたことがある。ここは、それに比べてこじんまりしているが、歴史を感じる個性的な博物館だ。


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海洋博物館の入り口

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天井はやはり船底の形

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模型や彫刻などを展示

 海洋博物館の横の路地を入っていくと、右手に歴史博物館。古い町並みの中にたたずむ 建物の雰囲気もすばらしい。 古い監獄を利用した建物で、18.19世紀にノルマンディーの一般市民が使っていた家具、陶器、衣裳などが展示されている。

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海洋博物館のあるサンテティエンヌ教会(写真左手)の間の路地を入る

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撮影不可なので展示物の写真がないが、この古いスペースも歴史博物館の一部。右手の建物はかつては監獄だった


モン・ジョリからの眺め

 今度は南西側の道を登り始める。坂道にあるホテル。よく手入れされた感じがエントランスからも伝わってきて、こんな宿に泊ってみたい。

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坂道にあったホテル


 さらに舗装されていない坂道を登っていくと、丘が開ける。モン・ジョリという地域だ。丘の上からオンフルールを見下ろす。

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丘からの景色を写真3枚で

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遠くに見えるのがノルマンディ橋

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フェリックス・ヴァロットン「オンフルールの眺め、朝」, 1910



 スイスの画家、フェリックス・ヴァロットン(Félix Edouard Vallotton, 1865 - 1925)の「オンフルールの眺め、朝」には、今年2月7日までパリ・マルモッタン美術館で開催されていたヴィラ・フローラ展で出合った。オンフルールで私が見た風景を思い出した。1910年に描かれたヴァロットンの絵の中にノルマンディ橋はないが、100年以上前も、そして今も、印象的な風景だったということだろう。ヴァロットンはアトリエで記憶と想像から創作する「合成風景画」に力を入れた画家で、この辺の風景を何枚か描いている。

メモ パリからオンフルールの行き方は、何種類かあるが、私は、パリ・サンラザール駅からドーヴィル・トルヴィル駅まで1時間20分、そこからバスで30分のルートで行っている。曜日や季節、時間帯にもよるがバスの本数は1-2時間に1本程度。


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この写真は、オンフルールの旧港の東側。ちょっと、町を外れても、印象派の絵を思わせるような美しい風景があった。

2016/03/05

ノルマンディーの宝石 オンフルール2  ブーダンとモネの絆 

鐘楼の絵はモネじゃない?

 オンフルールの港から北西側に、少し登った広場に、サント・カトリーヌ教会がある。オンフルール観光では必ず訪れる、フランス唯一の木造建ての教会である。オンフルールの町の船大工や漁師たちで、造船の知識や技術を利用して、別棟の鐘楼と共に15世紀末に建てられた。教会の天井は船底の形をしている。教会と鐘楼は、街のシンボルとなってきた。
 オンフルールのウジェーヌ・ブーダン美術館には、この鐘楼をクロード・モネ(Claude Monet, 1840 - 1926)が描いたという絵があった。

 現在、日本語で、インターネットで、この作品を探しても、モネの作品として紹介されている。

ところが、フランス語で探すと、2013年、専門家が、この絵はブーダンが作者と結論づけている。

 2013 年9月26日付のウエストフランスという新聞に「オンフルールはモネの絵を失いブーダンを得た」という見出しの記事がある。それによると、この絵は、クロード・モネのサインがあり、1964年にブーダン美術館に、モネの一番下の息子、ミシェル・モネ氏から寄贈された。(そりゃ普通、モネの作品だと思いますよね。)
 ところが同じ主題のウジェーヌ・ブーダン(Eugene Boudin,1824~1898)の作品がミシガン大学の美術館にあり、二つの作品がよく似ているというのである。二つの作品は、2013年にパリのジャックマール・アンドレ美術館でブーダンの展覧会があった際に、展示された。専門家は「サインは、ミシェル・モネ氏が寄贈する際に署名したものだろう」と言っている(そ、そんなことがあるんですね?)。
 モネとブーダンの深い絆を感じる一枚である。ブーダンは、モネの師として知られ、ブーダンと出会ったことが、モネの生涯の方向を決定づけたと言われている。

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「オンフルール、サント・カトリーヌの鐘楼」53 cm× 43 cm,1867年,ウジェーヌ・ブーダン美術館



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実際のサント・カトリーヌ鐘楼

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向かいのホテル・ドーファン

 この記事の中に、サント・カトリーヌ鐘楼を描いたとしたら、向かいのホテル・ドーファンからだろう、と書いてある。泊ってみたい…。

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木造の教会内部

サンデリの絵なら私でも?


 2014秋に東京の東郷青児美術館で開かれていた「印象派のふるさとノルマンディー展」には、アンリ・ド・サンデリの「オンフルールの市場」が展示されていた。この絵の中にも、サント・カトリーヌの鐘楼が市場の向こうに描かれている。

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アンリ・ド・サンデリ「オンフルールの市場」制作年不詳

  ブーダン美術館を過ぎ、西へ歩き続け、集落がとだえると、広場に灯台がある。灯台の前に、絵のパネルがあって、ここにもアンリ・ド・サンデリの絵が紹介されていた。(こうした絵のパネルは、オンフルールの町の各所に設置されている)。


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灯台のある公園

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アンリ・ド・サンデリがこの灯台を描いた絵を紹介したパネル。昔は、この辺りでも海水浴ができたんだ


 アンリ・ド・サンデリについて調べてみたが、ネットではWikipédiaのフランス語版くらいしか情報を見つけていない。

  それによると、サンデリが生きている間は絵が展示されたり、売られたりしなかったので、友人たちの間でだけ知られた画家である。 カレで生まれ、1882年に家族と共にル・アーブルに住む。デッフィやブラックとも交友があった。ル・アーブルの芸術大学、パリのアカデミージュリアンで学ぶ。病に侵され、スイスのレザン村に 1916年から 1919年まで行き、山の風景をたくさん描いた。

  1920年にセーヌ河口の町に戻り、1949年オンフルールで亡くなった。30年ひっそりと絵を描き続けた。死後5年後の1954年、パリの André Weil ギャラリーで回顧展が開かれ、人々に知られることになった。サンデリについて探していると、作品を売っているサイトにも辿りついてしまい、モネやブーダンだと買えないけど、この値段なら、私でも買えるかもと思ってみたり。。。

https://fr.wikipedia.org/wiki/Henri_de_Saint-Delis

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オンフルールにサンデリが住んでいたことを示すプレートがある建物


  ブーダン美術館を見学したときも、サンデリの絵を見ているはずだが、思い出せない。次にブーダン美術館を見学した時に、もっとよく見てみよう。ブーダン美術館が再開するのは6月25日からのようで、少し待ち遠しい。


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灯台近くの 並木道

日光浴や遊覧船も楽しめる

 ここから西へ西へと進むと、砂浜があり、夏なら浜辺で日光浴も可能だ。対岸には工場があるので、泳ぐのはあまり気が進まないが、こうして、日光浴する家族連れも多い。

 また港に戻ると、港には、遊覧船も停泊していて、多くの観光客を乗せて出港した。ノルマンディー橋をくぐる1時間半の船からの遊覧が楽しめる。

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日光浴する家族連れ(一昨年夏)

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対岸にはル・アーブルの工場

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出港する遊覧船
2016/03/04

ノルマンディーの宝石 オンフルール1 港と路地を歩く幸せ 

 港のそばで生まれたせいか、フランスの小さな港が大好きだ。バスク地方のサン・ジャン・リュズ、モンペリエから遠くないセート、ブルターニュ地方のロリアンやディナール、コート・ダジュールのヴィル・フランシュ・シュル・メール。どの港町も宝石のように美しい。その名を思い浮かべるだけで、幸せな気持ちになる。

 でも、いずれもパリからだと少し距離がある。パリから気軽に行けて、それらの町に負けず劣らず、あるいは、それ以上に美しくて、魚介類も新鮮で美味しい町、パリから、車で2時間くらい…。そう、それがフランス北部のノルマンディー地方、セーヌの河口に開けたオンフルールだ。

 ノルマンディー周遊やモン・サン・ミッシェル観光とともに日本のグループ旅行ツアーでも、30分から2時間立ち寄ることも多いようだ。しかし、この町に一泊して、港の日暮れから夜景を眺める、港のカフェやレストランで食事を採る、そんなゆったりとした旅もお奨めだ。

 この町では、歩き回るのが楽しい。旧港を一周し、魅力的な古い石畳の道を散策する。路地裏に、可愛いお店の看板を見つけたり、花やレースのカーテンで飾られた木組みの家を眺めたり。夏の週末には、大賑わいで、まるでテーマパークという意見も聞かれる。でも、一泊すれば、朝や日暮れの時間はぐっと静かになる。

 最後に行ったのが去年の11月。ここでは、これまで撮った写真で、その雰囲気を伝えたい。

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私にとってのオンフルール観光のイメージ。港を見ながら、魚介類を食べる。これは魚のテリーヌ

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オンフルールの港を四方から。5枚の写真で


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この写真は例外的に一昨年夏の写真。テラスの賑わいがより町を華やかにしている

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港で、写生する人も

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オンフルールの坂道、路地裏の写真を8枚連続で

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狭い坂道を走る観光馬車も

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オンフルールの港の夜景


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ノルマンディ大橋の向こうで、日が明けていく

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港を眺めるカフェのテラス席で、朝食。

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朝日に輝き始める港

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一番最初の写真が前菜でこれがメインデッシュのお魚で2皿で15・5ユーロ。私はデザートも頼んだので18・5ユーロだった。ディナーは対岸のレストランで、港を眺めながら、前菜に魚のスープ、メインがお魚、デザートはフォンダンショコラを選びました。3皿で15・5ユーロともっと安かった。パリでは考えられない安いお値段。そして美味しかった

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港から漁に船が出る。新鮮な魚貝類が食べられるのも漁師さんのおかげ。大漁を願ってます!

 オンフルールは11世紀から18世紀まで、ブラジルやカナダなどアメリカ大陸向けの航路の船の発着地として栄えた。1820年以降は、画家、作家、音楽家など多くの芸術家が訪れた。オンフルール生まれのフランス人画家、ウジェーヌ・ブーダン(Eugene Boudin,1824~1898)は、印象派の先駆者であり、その名を冠した美術館も、オンフルールにある。

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この写真は、ウジェーヌ。ブーダン美術館からの眺め。現在この美術館は工事のため6月25日 まで閉館中。


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ウジェーヌ・ブーダン「オンフルールの港の祭」(1858年?)ワシントン国立アートギャラリー

 この絵は、観光イベントとしておこなわれていたレガッタの競技会の際に描かれたという。ブーダンの海景画のなかでも、例外的に華やかな一枚である。この絵の主役は、ボートレースではなく、万国旗で色とりどりに飾られた帆船である。風が強くて、旗は風になびいている。ブーダンは、クロード・モネ(Claude Monet, 1840 - 1926)の師としても知られている。
 
 この絵が描かれた1858年ごろ、まだ10代だったモネは、人物のカリカチュア(戯画)などを、オンフルールの向かい側にあるル・アーブルの文具店の店先に置いてもらっていた。それが、ブーダンの目にとまり、彼らは知り合うことになる。ブーダンはキャンバスを戸外に持ち出し、陽光の下で海や空の風景を描いていた画家で、モネを屋外制作に連れて行った。二人は、キャンバスを二つ並べて絵を描いてたのだ。ブーダンと出会ったことが、モネの生涯の方向を決定づけたと後にモネ自身が語っている(オンフルール2に続く)。

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2016/03/01

セザンヌからブラックへ キュビスム誕生の地レスタック

 「レスタック」という地名を始めて知ったのは、パリで出合った、フランスの画家ジョルジュ・ブラック(Georges Braque, 1882 - 1963)の絵によってだった。

 明るい太陽と海、人生の幸福のイメージ。

 ラウル・デュフィ(Raoul Dufy, 1877 - 1953)の「レスタックのカフェ」も楽しい雰囲気が印象に残っていた。

 今回、ミストラルの吹く中、レスタックに訪れたところ、その期待は、裏切られた。「ミストラルは人を狂わせる」だれが言ったのか知らないこの言葉も、ミストラル初体験の私には、うなずけるところがあった。 

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ジョルジュ・ブラック,「レスタック,秋,1906」ポンピドゥー・センター国立近代美術館


 マルセイユの激しく厳しい自然。実は前回、マルセイユを訪れたときは8月で、あまりにも太陽が強く照り付け、それは、それで、自然の厳しさを思い知らされたものだ。

  今回は、天気はいいが、ミストラルが吹き荒れ、昼間というのに、レスタックの通りには、人がいなかった。
  
  それでも、地中海特有の白っぽい石灰質の岩が形作る雄大な景観と紺碧の海のコントラストが、レスタックの漁港の船の景観の向こうに広がっていて、その美しさに息を呑んだ。そして、また、レスタックは、絵画史にとって、堪らなく魅力的な場所だ。

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レスタックの港の写真を枚連続で。

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坂を登っていく

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レスタックの教会


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レスタックに設置された絵のパネル


 フランスの画家、エクス・アン・プロヴァンス出身のポール・セザンヌ(Paul Cézanne, 1839- 1906)は、1880年代に、長期間レスタックに住み、家からみた海の光景などを何点も描いている。小説家、エミール・ゾラ( Émile Zola、1840年 - 1902年)と友人だったセザンヌは、ゾラあての手紙で、家から見える日暮れから夜にかけての対岸のマルセイユや島々のパノラマの美しさを賞賛している。

 セザンヌは、1882年のはじめには、この地の風景に魅了されたルノワールと一緒にレスタックで仕事をしようとした。結局、ルノワールは病に倒れ、セザンヌと彼の母はルノワールを介抱することになる。また、1883年12月には、モネとルノワールがセザンヌを訪ねてやってきた。(John Rewald , p147-p148)
 「レスタック」の名が付いたセザンヌの作品の中から、いくつか紹介しよう。 

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ポール・セザンヌ,「木々の間から見えるレスタック」個人蔵,1978

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ポール・セザンヌ,「レスタックの海」パリ・ピカソ美術館,1878-1879


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ポール・セザンヌ,「プロヴァンスの家 レスタックのリオー谷」(別名:ピュジェの家)ワシントン ナショナル・ギャラリー,1879-1882


 このセザンヌの「プロヴァンスの家 レスタックのリオー谷」は、前回紹介したマルセイユ出身の芸術家、ピエール・ピュジェへのオマージュと言われている。ピュジェは、リオー谷に広大な土地を持つ農家の生まれと長年思われてきた。実際は祖父の家がそうだったのだが。

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ポール・セザンヌ,「レスタックとイフ島の眺望」個人蔵,1883-1885
 



 レスタックの名がさらに絵画史に刻まれるのは、1908年11月、カーンワイラーギャラリーにおいて、ジョルジュ・ブラック(Georges Braque, 1882 - 1963)のレスタックと題された描いた絵が展示されたことによってだろう。レスタックの絵の前で、アンリ・マチスが「小さなキューブ(立方体)」と話した。それを聞いたフランス人の美術評論家ルイ・ヴォークセルが「キューブ」の言葉を使ってブラックの作品を高く評価し、「キュビスム」が生まれた。(Georges Braque 1882-1963 , Paris, Grand Palais)

 1906年から1908年にかけてのブラックがレスタックで描いた作品を見てみよう。1906年の作品は、鮮やかな色彩や力強い筆使い、うねるような線に、フォーヴィスムの影響が感じられる。1908年の「レスタックの家々」「レスタックの水道橋」などが最初のキュビスム的な作品である。2014年にパリ、グランパレで開かれたブラック展で展示された絵の中で「レスタック」のタイトルがある、ブラックの絵が18点あった。

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ジョルジュ・ブラック,「レスタックの風景,秋」60.3×72.7cm,シカゴ美術館,1906

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ジョルジュ・ブラック,「レスタック,10月,1906」ポンピドゥー・センター国立近代美術館,1906

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ジョルジュ・ブラック,「レスタックの木々」1908,コペンハーゲン国立美術館

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ジョルジュ・ブラック,「レスタックの家々」1908夏,ベルン美術館



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ジョルジュ・ブラック,「レスタックの水道橋」72.5×59cm,ポンピドゥー・センター国立近代美術館,1908


 ピカソ(Spanish, 1881 –1973)がアフリカ芸術への取り組みからキュビスムへ発展したと言われているのに対し、ブラックはセザンヌへの取り組みからキュビスムへ発展したと言われる。ブラックは、1907年にサロン・ドートンヌで開催された「セザンヌ回顧展」を見て感動、1906年10月から1907年の2月まで、ブラックは友人の画家フリエスとレスタックで過ごした。セザンヌが1870-80年代に、このレスタックに滞在し、風景画を描いたからである。 

 パリに戻って、地下鉄9番線イエナ近くのパリ市立近代美術館を訪れた。ここには、無料の常設展示の中にキュビスムと題したコーナーがあり、ピカソやブラックの絵も展示されている。

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レスタックの水道橋の見える風景
  
レスタック (仏: L'Estaque) フランスのマルセイユの一番西に位置する地区小さな漁村である。行政上はマルセイユ16区の地区となっている。レスタックには、19世紀初頭から港と漁場の周りに村が形成され、造船所が造られた。1885-1906年には、造船業・化学・鉱業で発展し、多くの工場が建設される。セザンヌ、ポールシニャック、マティス、ブラック、デュフィ―など多くの印象派、ポスト印象派の画家がここを訪れ、絵を残した。特に20世紀前半にレスタックは、セザンヌの影響を受けた画家たちの巡礼の地となった。レスタックの港から茶色の看板≪chemin des peintres(シュマン・デ・パントル,画家の道) ≫があり、ここに来た画家の描いた場所と絵の詳細が明記されたパネルを見ながらたどることができる。ブラックも描いた鉄道橋のある景色も絵になる。レスタックへのアクセスはバス35番がマルセイユのJolietteが始発で運行していて、Chemin des peintresを散策する場合はEstaque Portで下車する。


参考文献
Cézanne ,John Rewald, Flammarion, 1986(p145)
Georges Braque 1882-1963, Paris, Grand Palais, Edition de la Réunion des musées nationaux ,2013
La Société Paul Cézanne
http://www.societe-cezanne.fr/lestaque-2/