ピエール・ピュジェ(彫刻家)バロック芸術に出合う マルセイユとパリ
17世紀に活躍した彫刻家、 素描家、 画家、 建築家、ピエール・ピュジェ(Pierre Puget ,1620 - 1694)は、マルセイユで誕生し、 マルセイユで亡くなった。18世紀から19世紀の多くの芸術家は彼を「フランスのミケランジェロ」と絶賛し、画家のニコラ・プッサンNicolas Poussinと並んで、 ルイ14世時代のフランスの古典精神を代表する彫刻家として知られている。
パリのルーヴル美術館の中には、「ピュジェの中庭」(Cour Puget)と名付けられた自然光の入る彫刻展示スペースがあり、ピュジェを初めとした17-19世紀のフランス彫刻が展示されている。一方、パリにある国立芸術大学(l'École nationale supérieure des beaux-arts )の正門に二つの頭部像があるが、左がピエール・ピュジェ、右がニコラ・プッサンである。

フランス国立芸術大学正門、パリ・ボナパルト通り14番地、左がピエール・ピュジェの頭部像

ピエール・ピュジェの頭部像
プジェはフランスにバロック芸術をもたらした芸術家の一人でもあり、 彼の作品にはその様式がとても良く表れている。
マルセイユとパリで出合ったピュジェの作品、ピュジェゆかりの地を紹介する。
静謐な美しさ パニエ地区の旧慈善院
マルセイユのパニエ地区は、かつては漁師たちの居住区だった。細い路地や階段が多く、洗濯物がはためき、下町の雰囲気が残る。今では、ストリート・アートをあちこちで見ることができ、それを目的に散策する観光客も多い。




上の2枚の写真は、旧慈善院のすぐ前の広場で撮影したもの。このすぐそばの通りにピエール・ピュジェの生家跡のプレートが掲げられた場所もある。

パニエ地区の中心に、ピュジェ によって、建てられた旧慈善院( la Vieille Charité) がある。イタリア・バロック建築の代表作。物乞いや貧しい人々を収容する慈善院としての建設を国王から依頼された。1671年、建設が始まり、1749年に完成した。現在は、この建物の中に科学と文化をテーマとする様々な専門分野を取り扱うセンター、地中海考古学博物館などが入っている。

ここから9枚連続で旧慈善院の写真

4つの翼棟からなり、外部と遮断され、3階建てのギャラリーが長方形の中庭を取り囲んでいる。中庭の中心には、卵型ドームの天井の礼拝堂がある。





長い間貧しいや老人、子どもを受け入れてきたが、第二次世界大戦後しばらく放置され、取り壊しの危機に直面した。1951年に建築家ル・コルビュジエLe Corbusierのてこ入れで歴史的建造物に指定されたという。
石の壁による影が静寂を形づくっている。パニエ地区の賑わいの中にいるとは思えない静けさ。ここに佇んでいると、この建物を残したル・コルビュジエは20世紀の斬新な建物を作っただけではなかったのだと感慨が湧いてきた。この建物は世紀を超えて美しい。
輝きを放っていたピュジェの作品
マルセイユ旧港からメトロで、ロンシャン宮へ。地下鉄をCinq Avenues Longchampで降りると、そのすぐそばに大きな庭園があった。その庭園を奥へ奥へと進むと、そこがロンシャン宮。宮殿の建物は、陽光に輝いていて、華やかで優雅な雰囲気をたたえていた。ロンシャン宮は、ニーム出身の建築家、アンリ・エペランティーによって、1862年から1869年に建てられた。もともとは、貯水池だった場所。この宮殿の中にあるマルセイユ美術館を訪れた。

ロンシャン宮の建物や彫刻も素晴らしい。ここでも遠くに見えるのは、ノートルダム・ド・ラ・ギャルド・バジリカ聖堂

宮殿の前には噴水がある。かつては貯水池だった。
ルーベンス、ダビット、クールベなど数々の作品が展示されているが、ここで、ピエール・ピュジェの作品や彼の作品を手本にしたほかの彫刻家の作品を見ることができる。
ピュジェは画家でもあった。画家としての評価はあまり高くないようだが、私には印象的だった。

ピエール・ピュジェ「アキレウスの訓練」 油彩

ピエール・ピュジェ「アンリ14世の騎馬像」大理石

ピエール・ピュジェ「ミラノのペスト」大理石

ピエール・ピュジェ、「サルバトール・ムンディ」大理石
ピュジェ以外で、印象的だったのは、フランソワ・ミレーのこの作品。

ジャン・フランソワ・ミレー「粥」油彩,1861
また、マルセイユということで海や港にちなんだ作品が多いのも、マルセイユ美術館の特徴。嵐の海を描いた作品などもじっくり見た。


ルーヴルでピュジェの傑作を見る
実を言うと、何の予習もせずに、この美術館に行ったのだが、ピュジェの彫刻が印象的だったので、マルセイユから帰って、パリのルーヴル美術館で改めて、ピュジェの作品をじっくり見た。ルーヴル美術館のリシュリュー翼 1階には、建築家ルフュエルによる中庭があり、かつてナポレオン3世の居館の一部をなしていた。1871-1989年は大蔵省に充てられ、現在ではガラス天井で覆われ、1993年以来17世紀から19世紀の野外彫刻を収めている。この一部が「ピュジェの中庭」である。
この中庭には、ピュジェの彫刻も展示されており、その中でも、もっとも有名なのが、「クロトナのミロ 」だろう。

ピエール・ピュジェ「クロトナのミロ 」大理石、高さ2.70m 幅1.40m,3方向から3枚の写真でどうぞ
数々のオリンピック競技の勝者であった、闘技者ミロは、老いつつもその剛力を試そうと、木の切り株を引き裂こうとした。手が木の幹に挟まって抜けなくなり、オオカミに喰い殺された。ピュジェは、オオカミをより気品あるライオンに置き換え、劇的効果を狙う構図を作り上げる。地面には、競技で勝ち取った賞杯が転がり、過去の栄光が無力であることを示している。

激しい苦痛によって、ミロの顔は引きつり、体は弓なりとなり、二本の足で踏ん張っている。ライオンのかぎ爪は、ミロの太ももに挟まっている。緊張した筋肉、浮き上がった静脈、肉体が震えている感じを与える。フランス・バロックを象徴するこの彫刻には、ミケランジェロを彷彿させる。

ピュジェは、1670年にコルベールより注文を受け、「クロトナのミロ」(1672年~1683年)および「ペルセウスとアンドロメダ」(1675年~1684年)をヴェルサイユの庭園のために制作した。彼がこの作品に用いたのは、王の海軍工廠で働いていた時にトゥーロンの造船場に打ち捨てられていた2つの大理石の塊であった。
1683年と1684年にそれらが完成した時、ルイ14世は作品を前にしてその強烈さゆえに最初は控えめであったが、最終的にはそれらを称賛し、庭園の中でも名誉ある場所、「緑の絨毯」の入り口にそれらを置いた。この2作品は、19世紀初頭に保護の目的でルーヴルに移されるまで、その場所に置かれた。
コルベールの後継者であるルーヴォアの強い支援を得て、ピュジェはヴェルサイユ宮殿のためにその他の作品にも取り組んだ。彼の手がけた浮彫りの中で最大の「アレクサンドロス大王とディオゲネ ス」(1671年~1693年)は大居室用に制作されたが、結局そこに飾られることはなかった。
ルーヴル美術館には、「アレクサンドロス大王とディオゲネス」、「ペルセウスとアンドロメダ」も展示されている。

ピエール・ピュジェ,「アレクサンドロス大王とディオゲネス」1693年,大理石

ピエール・ピュジェ,「ペルセウスとアンドロメダ」,1685年,大理石,高さ3.2m(英雄ペルセウスが海の怪物を倒し、鎖につながれていた王女アンドロメダを救出する)
ピエール・ピュジェ 大工の父の子としてマルセイユで産まれるが、2歳で孤児となり、14歳で海軍の見習いとなってそこで、木彫りの基礎を学ぶ。18歳の時にイタリアに行き、1640~43年に P.コルトナの弟子としてローマのバルベリーニ宮,フィレンツェのパラッツォ・ピッティの天井装飾に従事。 43~56年はマルセイユ,トゥーロンで主として画家として活躍。初期の作品は、トゥーロン市庁舎の〈アトランテス〉(1656‐57)。1661年よりジェノバに滞在。当地で《セバスティアヌス》《処女懐胎》など,ドラマティックな作品を手がける。67年帰国。ローマのバロック様式のフランスにおける継承者といえるが,バロックとしては抑制された様式を示す。
参考文献
Pierre Puget,Wikipédia(フランス語,日本語版はまだない)https://fr.wikipedia.org/wiki/Pierre_Puget
ルーヴル美術館のサイト《クロトナのミロ》http://www.louvre.fr/jp/oeuvre-notices/%E3%80%8A%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%88%E3%83%8A%E3%81%AE%E3%83%9F%E3%83%AD%E3%80%8B-0
ヴェルサイユ宮殿のサイト「ピエール・ピュジェ」http://jp.chateauversailles.fr/jp/history/versailles-during-the-centuries/the-palace-construction/pierre-puget-1620-1694
パリのルーヴル美術館の中には、「ピュジェの中庭」(Cour Puget)と名付けられた自然光の入る彫刻展示スペースがあり、ピュジェを初めとした17-19世紀のフランス彫刻が展示されている。一方、パリにある国立芸術大学(l'École nationale supérieure des beaux-arts )の正門に二つの頭部像があるが、左がピエール・ピュジェ、右がニコラ・プッサンである。

フランス国立芸術大学正門、パリ・ボナパルト通り14番地、左がピエール・ピュジェの頭部像

ピエール・ピュジェの頭部像
プジェはフランスにバロック芸術をもたらした芸術家の一人でもあり、 彼の作品にはその様式がとても良く表れている。
マルセイユとパリで出合ったピュジェの作品、ピュジェゆかりの地を紹介する。
静謐な美しさ パニエ地区の旧慈善院
マルセイユのパニエ地区は、かつては漁師たちの居住区だった。細い路地や階段が多く、洗濯物がはためき、下町の雰囲気が残る。今では、ストリート・アートをあちこちで見ることができ、それを目的に散策する観光客も多い。




上の2枚の写真は、旧慈善院のすぐ前の広場で撮影したもの。このすぐそばの通りにピエール・ピュジェの生家跡のプレートが掲げられた場所もある。

パニエ地区の中心に、ピュジェ によって、建てられた旧慈善院( la Vieille Charité) がある。イタリア・バロック建築の代表作。物乞いや貧しい人々を収容する慈善院としての建設を国王から依頼された。1671年、建設が始まり、1749年に完成した。現在は、この建物の中に科学と文化をテーマとする様々な専門分野を取り扱うセンター、地中海考古学博物館などが入っている。

ここから9枚連続で旧慈善院の写真

4つの翼棟からなり、外部と遮断され、3階建てのギャラリーが長方形の中庭を取り囲んでいる。中庭の中心には、卵型ドームの天井の礼拝堂がある。





長い間貧しいや老人、子どもを受け入れてきたが、第二次世界大戦後しばらく放置され、取り壊しの危機に直面した。1951年に建築家ル・コルビュジエLe Corbusierのてこ入れで歴史的建造物に指定されたという。
石の壁による影が静寂を形づくっている。パニエ地区の賑わいの中にいるとは思えない静けさ。ここに佇んでいると、この建物を残したル・コルビュジエは20世紀の斬新な建物を作っただけではなかったのだと感慨が湧いてきた。この建物は世紀を超えて美しい。
輝きを放っていたピュジェの作品
マルセイユ旧港からメトロで、ロンシャン宮へ。地下鉄をCinq Avenues Longchampで降りると、そのすぐそばに大きな庭園があった。その庭園を奥へ奥へと進むと、そこがロンシャン宮。宮殿の建物は、陽光に輝いていて、華やかで優雅な雰囲気をたたえていた。ロンシャン宮は、ニーム出身の建築家、アンリ・エペランティーによって、1862年から1869年に建てられた。もともとは、貯水池だった場所。この宮殿の中にあるマルセイユ美術館を訪れた。

ロンシャン宮の建物や彫刻も素晴らしい。ここでも遠くに見えるのは、ノートルダム・ド・ラ・ギャルド・バジリカ聖堂

宮殿の前には噴水がある。かつては貯水池だった。
ルーベンス、ダビット、クールベなど数々の作品が展示されているが、ここで、ピエール・ピュジェの作品や彼の作品を手本にしたほかの彫刻家の作品を見ることができる。
ピュジェは画家でもあった。画家としての評価はあまり高くないようだが、私には印象的だった。

ピエール・ピュジェ「アキレウスの訓練」 油彩

ピエール・ピュジェ「アンリ14世の騎馬像」大理石

ピエール・ピュジェ「ミラノのペスト」大理石

ピエール・ピュジェ、「サルバトール・ムンディ」大理石
ピュジェ以外で、印象的だったのは、フランソワ・ミレーのこの作品。

ジャン・フランソワ・ミレー「粥」油彩,1861
また、マルセイユということで海や港にちなんだ作品が多いのも、マルセイユ美術館の特徴。嵐の海を描いた作品などもじっくり見た。


ルーヴルでピュジェの傑作を見る
実を言うと、何の予習もせずに、この美術館に行ったのだが、ピュジェの彫刻が印象的だったので、マルセイユから帰って、パリのルーヴル美術館で改めて、ピュジェの作品をじっくり見た。ルーヴル美術館のリシュリュー翼 1階には、建築家ルフュエルによる中庭があり、かつてナポレオン3世の居館の一部をなしていた。1871-1989年は大蔵省に充てられ、現在ではガラス天井で覆われ、1993年以来17世紀から19世紀の野外彫刻を収めている。この一部が「ピュジェの中庭」である。
この中庭には、ピュジェの彫刻も展示されており、その中でも、もっとも有名なのが、「クロトナのミロ 」だろう。

ピエール・ピュジェ「クロトナのミロ 」大理石、高さ2.70m 幅1.40m,3方向から3枚の写真でどうぞ
数々のオリンピック競技の勝者であった、闘技者ミロは、老いつつもその剛力を試そうと、木の切り株を引き裂こうとした。手が木の幹に挟まって抜けなくなり、オオカミに喰い殺された。ピュジェは、オオカミをより気品あるライオンに置き換え、劇的効果を狙う構図を作り上げる。地面には、競技で勝ち取った賞杯が転がり、過去の栄光が無力であることを示している。

激しい苦痛によって、ミロの顔は引きつり、体は弓なりとなり、二本の足で踏ん張っている。ライオンのかぎ爪は、ミロの太ももに挟まっている。緊張した筋肉、浮き上がった静脈、肉体が震えている感じを与える。フランス・バロックを象徴するこの彫刻には、ミケランジェロを彷彿させる。

ピュジェは、1670年にコルベールより注文を受け、「クロトナのミロ」(1672年~1683年)および「ペルセウスとアンドロメダ」(1675年~1684年)をヴェルサイユの庭園のために制作した。彼がこの作品に用いたのは、王の海軍工廠で働いていた時にトゥーロンの造船場に打ち捨てられていた2つの大理石の塊であった。
1683年と1684年にそれらが完成した時、ルイ14世は作品を前にしてその強烈さゆえに最初は控えめであったが、最終的にはそれらを称賛し、庭園の中でも名誉ある場所、「緑の絨毯」の入り口にそれらを置いた。この2作品は、19世紀初頭に保護の目的でルーヴルに移されるまで、その場所に置かれた。
コルベールの後継者であるルーヴォアの強い支援を得て、ピュジェはヴェルサイユ宮殿のためにその他の作品にも取り組んだ。彼の手がけた浮彫りの中で最大の「アレクサンドロス大王とディオゲネ ス」(1671年~1693年)は大居室用に制作されたが、結局そこに飾られることはなかった。
ルーヴル美術館には、「アレクサンドロス大王とディオゲネス」、「ペルセウスとアンドロメダ」も展示されている。

ピエール・ピュジェ,「アレクサンドロス大王とディオゲネス」1693年,大理石

ピエール・ピュジェ,「ペルセウスとアンドロメダ」,1685年,大理石,高さ3.2m(英雄ペルセウスが海の怪物を倒し、鎖につながれていた王女アンドロメダを救出する)
ピエール・ピュジェ 大工の父の子としてマルセイユで産まれるが、2歳で孤児となり、14歳で海軍の見習いとなってそこで、木彫りの基礎を学ぶ。18歳の時にイタリアに行き、1640~43年に P.コルトナの弟子としてローマのバルベリーニ宮,フィレンツェのパラッツォ・ピッティの天井装飾に従事。 43~56年はマルセイユ,トゥーロンで主として画家として活躍。初期の作品は、トゥーロン市庁舎の〈アトランテス〉(1656‐57)。1661年よりジェノバに滞在。当地で《セバスティアヌス》《処女懐胎》など,ドラマティックな作品を手がける。67年帰国。ローマのバロック様式のフランスにおける継承者といえるが,バロックとしては抑制された様式を示す。
参考文献
Pierre Puget,Wikipédia(フランス語,日本語版はまだない)https://fr.wikipedia.org/wiki/Pierre_Puget
ルーヴル美術館のサイト《クロトナのミロ》http://www.louvre.fr/jp/oeuvre-notices/%E3%80%8A%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%88%E3%83%8A%E3%81%AE%E3%83%9F%E3%83%AD%E3%80%8B-0
ヴェルサイユ宮殿のサイト「ピエール・ピュジェ」http://jp.chateauversailles.fr/jp/history/versailles-during-the-centuries/the-palace-construction/pierre-puget-1620-1694
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