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2016/02/28

ピエール・ピュジェ(彫刻家)バロック芸術に出合う マルセイユとパリ

 17世紀に活躍した彫刻家、 素描家、 画家、 建築家、ピエール・ピュジェ(Pierre Puget ,1620 - 1694)は、マルセイユで誕生し、 マルセイユで亡くなった。18世紀から19世紀の多くの芸術家は彼を「フランスのミケランジェロ」と絶賛し、画家のニコラ・プッサンNicolas Poussinと並んで、 ルイ14世時代のフランスの古典精神を代表する彫刻家として知られている。

 パリのルーヴル美術館の中には、「ピュジェの中庭」(Cour Puget)と名付けられた自然光の入る彫刻展示スペースがあり、ピュジェを初めとした17-19世紀のフランス彫刻が展示されている。一方、パリにある国立芸術大学(l'École nationale supérieure des beaux-arts )の正門に二つの頭部像があるが、左がピエール・ピュジェ、右がニコラ・プッサンである。

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フランス国立芸術大学正門、パリ・ボナパルト通り14番地、左がピエール・ピュジェの頭部像


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ピエール・ピュジェの頭部像

 プジェはフランスにバロック芸術をもたらした芸術家の一人でもあり、 彼の作品にはその様式がとても良く表れている。
  マルセイユとパリで出合ったピュジェの作品、ピュジェゆかりの地を紹介する。


静謐な美しさ パニエ地区の旧慈善院

 マルセイユのパニエ地区は、かつては漁師たちの居住区だった。細い路地や階段が多く、洗濯物がはためき、下町の雰囲気が残る。今では、ストリート・アートをあちこちで見ることができ、それを目的に散策する観光客も多い。

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上の2枚の写真は、旧慈善院のすぐ前の広場で撮影したもの。このすぐそばの通りにピエール・ピュジェの生家跡のプレートが掲げられた場所もある。

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 パニエ地区の中心に、ピュジェ によって、建てられた旧慈善院( la Vieille Charité) がある。イタリア・バロック建築の代表作。物乞いや貧しい人々を収容する慈善院としての建設を国王から依頼された。1671年、建設が始まり、1749年に完成した。現在は、この建物の中に科学と文化をテーマとする様々な専門分野を取り扱うセンター、地中海考古学博物館などが入っている。

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ここから9枚連続で旧慈善院の写真
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  4つの翼棟からなり、外部と遮断され、3階建てのギャラリーが長方形の中庭を取り囲んでいる。中庭の中心には、卵型ドームの天井の礼拝堂がある。


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 長い間貧しいや老人、子どもを受け入れてきたが、第二次世界大戦後しばらく放置され、取り壊しの危機に直面した。1951年に建築家ル・コルビュジエLe Corbusierのてこ入れで歴史的建造物に指定されたという。

  石の壁による影が静寂を形づくっている。パニエ地区の賑わいの中にいるとは思えない静けさ。ここに佇んでいると、この建物を残したル・コルビュジエは20世紀の斬新な建物を作っただけではなかったのだと感慨が湧いてきた。この建物は世紀を超えて美しい。
  
輝きを放っていたピュジェの作品

  マルセイユ旧港からメトロで、ロンシャン宮へ。地下鉄をCinq Avenues Longchampで降りると、そのすぐそばに大きな庭園があった。その庭園を奥へ奥へと進むと、そこがロンシャン宮。宮殿の建物は、陽光に輝いていて、華やかで優雅な雰囲気をたたえていた。ロンシャン宮は、ニーム出身の建築家、アンリ・エペランティーによって、1862年から1869年に建てられた。もともとは、貯水池だった場所。この宮殿の中にあるマルセイユ美術館を訪れた。
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ロンシャン宮の建物や彫刻も素晴らしい。ここでも遠くに見えるのは、ノートルダム・ド・ラ・ギャルド・バジリカ聖堂
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宮殿の前には噴水がある。かつては貯水池だった。

 ルーベンス、ダビット、クールベなど数々の作品が展示されているが、ここで、ピエール・ピュジェの作品や彼の作品を手本にしたほかの彫刻家の作品を見ることができる。
 
ピュジェは画家でもあった。画家としての評価はあまり高くないようだが、私には印象的だった。

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ピエール・ピュジェ「アキレウスの訓練」 油彩

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ピエール・ピュジェ「アンリ14世の騎馬像」大理石 


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ピエール・ピュジェ「ミラノのペスト」大理石 


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ピエール・ピュジェ、「サルバトール・ムンディ」大理石

ピュジェ以外で、印象的だったのは、フランソワ・ミレーのこの作品。
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ジャン・フランソワ・ミレー「粥」油彩,1861


また、マルセイユということで海や港にちなんだ作品が多いのも、マルセイユ美術館の特徴。嵐の海を描いた作品などもじっくり見た。 
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ルーヴルでピュジェの傑作を見る

 実を言うと、何の予習もせずに、この美術館に行ったのだが、ピュジェの彫刻が印象的だったので、マルセイユから帰って、パリのルーヴル美術館で改めて、ピュジェの作品をじっくり見た。ルーヴル美術館のリシュリュー翼 1階には、建築家ルフュエルによる中庭があり、かつてナポレオン3世の居館の一部をなしていた。1871-1989年は大蔵省に充てられ、現在ではガラス天井で覆われ、1993年以来17世紀から19世紀の野外彫刻を収めている。この一部が「ピュジェの中庭」である。

 この中庭には、ピュジェの彫刻も展示されており、その中でも、もっとも有名なのが、「クロトナのミロ 」だろう。

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ピエール・ピュジェ「クロトナのミロ 」大理石、高さ2.70m 幅1.40m,3方向から3枚の写真でどうぞ


  数々のオリンピック競技の勝者であった、闘技者ミロは、老いつつもその剛力を試そうと、木の切り株を引き裂こうとした。手が木の幹に挟まって抜けなくなり、オオカミに喰い殺された。ピュジェは、オオカミをより気品あるライオンに置き換え、劇的効果を狙う構図を作り上げる。地面には、競技で勝ち取った賞杯が転がり、過去の栄光が無力であることを示している。

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 激しい苦痛によって、ミロの顔は引きつり、体は弓なりとなり、二本の足で踏ん張っている。ライオンのかぎ爪は、ミロの太ももに挟まっている。緊張した筋肉、浮き上がった静脈、肉体が震えている感じを与える。フランス・バロックを象徴するこの彫刻には、ミケランジェロを彷彿させる。

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 ピュジェは、1670年にコルベールより注文を受け、「クロトナのミロ」(1672年~1683年)および「ペルセウスとアンドロメダ」(1675年~1684年)をヴェルサイユの庭園のために制作した。彼がこの作品に用いたのは、王の海軍工廠で働いていた時にトゥーロンの造船場に打ち捨てられていた2つの大理石の塊であった。

 1683年と1684年にそれらが完成した時、ルイ14世は作品を前にしてその強烈さゆえに最初は控えめであったが、最終的にはそれらを称賛し、庭園の中でも名誉ある場所、「緑の絨毯」の入り口にそれらを置いた。この2作品は、19世紀初頭に保護の目的でルーヴルに移されるまで、その場所に置かれた。

 コルベールの後継者であるルーヴォアの強い支援を得て、ピュジェはヴェルサイユ宮殿のためにその他の作品にも取り組んだ。彼の手がけた浮彫りの中で最大の「アレクサンドロス大王とディオゲネ ス」(1671年~1693年)は大居室用に制作されたが、結局そこに飾られることはなかった。
 ルーヴル美術館には、「アレクサンドロス大王とディオゲネス」、「ペルセウスとアンドロメダ」も展示されている。

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ピエール・ピュジェ,「アレクサンドロス大王とディオゲネス」1693年,大理石

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ピエール・ピュジェ,「ペルセウスとアンドロメダ」,1685年,大理石,高さ3.2m(英雄ペルセウスが海の怪物を倒し、鎖につながれていた王女アンドロメダを救出する)


 ピエール・ピュジェ 大工の父の子としてマルセイユで産まれるが、2歳で孤児となり、14歳で海軍の見習いとなってそこで、木彫りの基礎を学ぶ。18歳の時にイタリアに行き、1640~43年に P.コルトナの弟子としてローマのバルベリーニ宮,フィレンツェのパラッツォ・ピッティの天井装飾に従事。 43~56年はマルセイユ,トゥーロンで主として画家として活躍。初期の作品は、トゥーロン市庁舎の〈アトランテス〉(1656‐57)。1661年よりジェノバに滞在。当地で《セバスティアヌス》《処女懐胎》など,ドラマティックな作品を手がける。67年帰国。ローマのバロック様式のフランスにおける継承者といえるが,バロックとしては抑制された様式を示す。


参考文献
Pierre Puget,Wikipédia(フランス語,日本語版はまだない)https://fr.wikipedia.org/wiki/Pierre_Puget

ルーヴル美術館のサイト《クロトナのミロ》http://www.louvre.fr/jp/oeuvre-notices/%E3%80%8A%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%88%E3%83%8A%E3%81%AE%E3%83%9F%E3%83%AD%E3%80%8B-0

ヴェルサイユ宮殿のサイト「ピエール・ピュジェ」http://jp.chateauversailles.fr/jp/history/versailles-during-the-centuries/the-palace-construction/pierre-puget-1620-1694
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2016/02/25

石造りの要塞から港を眺める マルセイユ

 海が恋しくて、フランス最大の港町、マルセイユに行ってきた。2泊3日旧港そばのホテルに泊まって、海と魚介類を堪能。そんなつもりの旅だったが、行ってみると、マルセイユは約10年前に行ったときに比べて大きな変貌を遂げていた。建築、歴史、芸術-。マルセイユでの発見を3回に渡って紹介する。第1回目は、サン・ジャン要塞の復活について。


  今回パリからの往復に使ったのは、王道のパリ・リヨン駅ではなく、ディズニーランド・パリのあるマルヌ ラ バレ(Marne la Vallée)から出発するouigo(ウイゴ)というTGV。簡素化を進め、価格競争を推し進めている格安のTGVだ。冬だったせいもあるのかもしれないが、インターネットで1カ月前に購入し、ここから-マルセイユ間の交通費が行き20€、帰り15€という破格の値段だった。(ただし、パリ市内から発着地までの交通費は別途必要)

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格安TGVウイゴ,マルヌ ラ バレにて

 マルヌ ラ バレから3時間ちょっとで到着したマルセイユ・サン・シャルル駅は、丘の上にある。駅に併設して、ブティックなど商業施設が入った近代的な雰囲気の駅ビルもあった。駅から徒歩20分程度で、旧港に着く。

  今回の目的のひとつは、パリにはない海と港を思う存分眺めること。まずは、旧港の地下鉄のある付近から港を見る。大きな観覧車が港の風景のアクセント。午前中、旧港のベルジュ埠頭(ベルギー人埠頭)では魚市が立ち、地中海から獲れたての魚介類が並んでいる。売買する人、見物する観光客。そこから港の右側(パニエ地区側,ポール岸)を歩く。ここからは、遠くに、ノートルダム・ド・バジリカ聖堂も見え、マルセイユらしい港の風景が広がっている。

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マルセイユ旧港の魚市。豊富な魚が並んでいる


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パニエ地区側からの港の風景1


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パニエ地区側からの港の風景2

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パニエ地区側からの港の風景3


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2泊目にパニエ地区側にあるホテルに泊まった。そのホテルからの夜景

  次に、サン・ジャン要塞(Fort Saint-Jean)に登って見よう。角度を変えながら港や海を眺めることができる。さらに、塔に登ると、目の覚めるようなパノラマに出合うだろう。

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旧港側のMuCEMの入り口から塔を見上げる。塔には、MuCEMの文字


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入り口を入って登っていく

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この場所が要塞だったころの司令室と見られる

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要塞の内部

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ルネ王の塔。ここに登ってからの景色が素晴らしい

  マルセイユの歴史は古く、小アジアから来た古代ギリシアの一民族であるフォカイア人(phocéens)が紀元前600年頃に、現在の旧港に築いた植民市マッサリア(Massalia)にその端を発する。都市は交易で栄え、マッサリアはギリシア系住民の拠点であったが、徐々にローマ化が進んでいった。3世紀ごろ、キリスト教がもたらされた。10世紀にプロヴァンス伯の支配するところとなり、1481年にはフランス王国に併合された。

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庭園になっている、この要塞からの眺めを11枚連続で。

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 この地中海の良港を巡っては、激しい権力争いが幾度となく繰り広げられてきた。サン・ジャン要塞は、その対岸にあるサン・ニコラ要塞とともに、外敵からこの港を守ってきた。
 サン・ジャン要塞は、12世紀の終わりごろ、聖ヨハネ騎士団の名で建てられたのが始まり。サン・ジャンは聖ヨハネの意だ。さらに敵からの監視や侵入を防ぐために、15世紀に、ルネ王の塔(La Tour du Roi René)を建築した。標識灯の丸い塔は 1664年に建設された。現在、この丸い塔には登ることはできなかった。ルイ14世の命令で、城塞は 1668年から 1671年にかけて、クラービル(Louis Nicolas de Clerville)によって、ヴォ―バン(marquis de Vauban, 1633 – 1707,ヴォーバンの防衛施設群は世界遺産である)監修のもとに建設された。フランス革命期には、要塞は牢獄の役割を果たした。1964年には、要塞は国の歴史遺産に指定された。
 
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 現在は、サン・ジャン要塞は、2013年にオープンした欧州・地中海文明博物館(Musée des Civilisations d'Europe et de Méditerranée-MuCEM)の一部であり、この博物館が開館している時間帯であれば、無料で、楽しむことができる。何度でも無料でこの庭園に登れるのがうれしく、私は3日の滞在中に2回も行ったのだが、そのせいで、晴れの日と曇りの日の写真がまったく違うものになってしまっている。

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翌日、旧港の対岸からサン・ジャン要塞の全体を見た


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同じく翌日、対岸から。海の向こうの左側の建物がルネ王の塔のあるサン・ジャン要塞の一部

 サン・ジャン要塞と、「J4」と名付けられた現代建築は、橋の回廊でつながっている。この建物は、建築家による設計。自分が撮った写真が素晴らしく見えるのも、この建築家がしっかり計算してこの建物を建てているからだ。MuCEMの中心は、この「J4」の建物であり、地中海文明について展示している。展示を見る時間はなかったが、「J4」にある書店に面した、1階のカフェテリアで、温かく美味しいココアをいただいた。外はミストラルが吹き荒れていて、建物の中にいると少し落ち着く。新しい建物、海に面したガラス張りの建物ということで、私が知る施設の中では長崎市の長崎県立美術館の建物を思い出した。

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サン・ジャン要塞からの景色。手前がJ4の建物

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左の橋で、要塞は、J4の建物とつながっている

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J4の建物から海を見る

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書店の窓から。左奥がサント・マリー・マジョール大聖堂。


 ご覧のように旧港には、プレジャーボートが多く、大きな船は停泊していない。大型客船は、ジョリエットと言われる地区に停泊するらしい。MuCEMからジョリエットと呼ばれる地域まで歩いてみた。「レ ドック」という新しい施設が現れ、街行く人が皆、そこに吸い込まれるように入っていく。1853年に建造されたドックは19世紀のマルセイユの海洋交易の象徴的建造物であったが、時代の流れとともにその役目を終え、1990年代に大改造された。さらに2015年には、多くのブティックやレストランを集めて、グランド・オープンした。

 ドックの構造をそのまま使いながら、市民が歩けるよう工夫して作られている。船底を受けていた部分は、現在は地階として整備され、お洒落なカフェ、レストランが営業している。その一つのレストランで食事した。壁は堅牢なドックのままで、天候に左右されないよう屋根が設けられているが、自然の光が注ぎ込むようガラス張りにする工夫がされており、建物全体が明るく、心地よい。

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 レ ドック内部

 せっかく来たのだからと、地下鉄、トラム、バスすべてに乗ってみた。全面近代化されたトラム(路面電車)は新しくて清潔。地下鉄は、旧港の地下鉄のプラットホームに水槽があって、魚が泳いでいるのが印象的だった。バスもほぼ定刻通りに現れ、清潔だった。

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旧港駅のプラットフォームにあった水槽の魚。パリにはないので、待つ間に見るのが楽しい。



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メトロ内部

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バス、メトロ、トラム、すべてに乗り放題の1日券。

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一泊目に泊まった旧港にあるニューホテルは、1978年夏に哲学者サルトルが泊まったというプレートが掲げられていた。古いが風情のあるホテルだった。
  
 トラムやバスからは、街のさまざまな様子を見ることができる。街中で工事が行われていた。徒歩で訪れた港の反対側も工事中だった。
  
 新しい施設、交通網の整備、そして現在の工事すべて、ユーロ・メディテラネ都市開発プロジェクトの一環だとみられる。マルセイユは、港湾機能の移転、社会構造の変化によって旧市街の衰退が問題となっていたが、1990年代から、港湾地区でユーロ・メディテラネ再開発が開始される。マルセイユを経済・文化・環境などの面においてヨーロッパレベルで競争力のある都市にすることを目指したもので、開発面積480ヘクタール、総工費70億ユーロ。

 行政において事業推進をリードしたのは、1995年の選挙で当選して以来、マルセイユ市長をつとめるジャン・クロード・ゴーダン(Jean-Claude Gaudin)氏。市長は、寂れていた旧港周辺のウォーターフロントを、ロンドンのドックランドをモデルにした職住複合のビジネス街とすべく再開発を推進したのである。そういえば、ロンドンのドッグランドと「レ ドッグ」は、どこか似ている気もする。

  文化政策の関連も重視され、MuCEMの移転はその目玉となるものだ。そのほかにも、たくさんの建物がオープンしたが、その中の一つに、日本人建築家、隈研吾氏によって建てられた、新しい現代美術館FRACもある。FRACのファサードは折り紙に見立てた3Dパネルで飾られ、目を見張る迫力のある建築になっている。2013年欧州文化首都に選出され、今後新しいホテルもオープンする予定で、ますますの発展が期待されている。

Frac隅健吾
日本人建築家、隈研吾氏によって建てられた、新しい現代美術館FRAC 

感想 マルセイユの人口は約82 万人でパリに次ぎフランス第 2 位。住民にとっては、住環境や賑わいのある空間が整備されていくのは大事なことだ。ただの観光客にしかすぎない、建築の専門家でもない、歴史好きの私にとって、ウオーターフロント再開発というものはロンドンや神戸や横浜、福岡の再開発と似ている気がした。MuCEMの自然と一体化した景観は素晴らしいと認めるが、新しいビルは、東京のミッドタウンとか国立新美術館とか六本木ヒルズ森タワーそういう建物とあまり変わらないように見えてしまう(現代建築の違いの分かるみなさん、ごめんなさい)。世界中で同じような景観になってしまうと感じてしまった。

 そうした中、石造りの要塞の建物は、マルセイユの景観を特徴づける素晴らしいものだ。サン・ジャン要塞やサン・ニコラ要塞は、海、港とともに、堪らない魅力を秘めていた。少し似た施設としては、アンティーブの城塞を見学したことがあるが、マルセイユの場合、中心街のすぐそばに、要塞があるので、徒歩でも、訪れやすく、港の景観も素晴らしく、天気のいい日は、本当にお奨め。今回、ミストラルのせいで、船が運航していなかったが、次回は是非、船から旧港の景色を眺めたい。 

参考文献
Fort Saint-Jean (Marseille),wikipedia
https://fr.wikipedia.org/wiki/Fort_Saint-Jean_%28Marseille%29

2016/02/23

サドとともに哲学する ―パリ-

 「壮麗と悲惨  売春のイメージ」「サド・太陽を攻撃する」「奇妙な天使」これらは、フランス語のタイトルの一部を私なりに翻訳したものですが、どこの、何の、タイトルだと思います?
 
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フランツ・フォン・シュトゥック -  ユディトとホロフェルネス 1927,油彩・画布,82 × 74 cm,個人蔵


 答えは、ここ3年の、パリ・オルセー美術館の企画展のタイトルを翻訳したものです。もっと正確に、フランス語のタイトルと、会期をプラスして書いてみますね。もっと知りたい方のために、青色文字のタイトルをクリックするとビデオにつながるようになっています。

★壮麗と悲惨・売春のイメージ、1850年-1910年
Splendeurs et misères. Images de la prostitution, 1850-1910
2015年9月22日 – 2016年1月17日


★ピエール ボナール・理想郷を描く
Pierre Bonnard. Peindre l'Arcadie
2015年3月17日 –7月19日


★サド・太陽を攻撃する
Sade. Attaquer le soleil
2014年10月14日 – 2015年1月25日


★社会が自殺させし者・ゴッホ/アルトー展
Van Gogh / Artaud. Le suicidé de la société
2014年3月11日 – 7月6日



マスキュリン/マスキュラン・1800年から現在まで、芸術の中の男性ヌード 
Masculin / Masculin. L'homme nu dans l'art de 1800 à nos jours.
2013年9月24日– 2014年1月12日


奇妙な天使 ゴヤからマックス エルンストへ ダークロマンチシズム 
L'ange du bizarre. Le romantisme noir de Goya à Max Ernst
2013年3月5日- 6月23日



 なかなか果敢なタイトルですよね。タイトルがこうなのですから、もちろん中身も果敢です。すべて見ましたが、甲乙つけがたいほど、どれも、素晴らしかったです。作品を展示するだけでなく、21世紀にふさわしい、新しい芸術への視点を導入しようという努力が感じられて、展覧会そのものが、もうひとつの芸術作品のようでした。 

 ハフィントンポストによると、この中で、一番入場者が多かったのは、4カ月を超える長期の展覧会だったことも関係すると思うのですが、「社会が自殺させし者・ゴッホ/アルトー展」654.000 人だったそうです。ボナールに、510.000人、男性ヌードの「マスキュリン/マスキュラン」が410.000人。「サド・太陽を攻撃する」展は、243.165人だったとのことです。
http://www.huffingtonpost.fr/2015/09/22/musee-orsay-exposition-prostitution-homme-nu-sade-sexe_n_8169954.html

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アントニオ・デル・ポッライオーロ 「裸の男たちの戦い」1470-1475,版画,パリ・ルーブル美術館

 きょうは、私が一番、印象深かった、サド展を一年以上も前の話で今さらながら申し訳ないのですが、紹介しておこうと思います。作品を抜粋して紹介(実は、最初の写真の絵画からそうで、既に始まっています)するとともに、展覧会でも展示されていたサドの語録のいくつかを日本語に翻訳して紹介しますね(日本語の本を持っていないので、私なりの訳になります)。目から鱗の展覧会でした。えっ、なんで、オルセーでサドですか?という驚きから始まって…。行ってみると、やはりそこには品のいい芸術作品が! 

 前回語った画家、ユベール・ロベールとのつながりで言うと、サド侯爵(マルキ・ド・サドMarquis de Sade、1740年6月2日 - 1814年12月2日)は、サン・ラザール監獄(今では、私がよく行くパリ市の図書館がその一部)に収監されていたことがあります。サドは1740年にパリで生まれ、1814年にパリ郊外のシャラントン精神病院で亡くなりました。2014年はサドの没後200周年だったので、この展覧会が企画されたのですね。

この展覧会は、最初の部屋では、モノクロの映画を抜粋して上映していました。ホラー映画に近いような映画の恐怖のシーンです。そして、絵画、彫刻、写真の400以上の作品。暴力的、性的な作品が多かったです。でも、「さすが芸術、美しい!」「この作品初めて見た」と思えるような作品もたくさんありました。それらをまとめる役割をしているのがサドやフランスのほかの作家が残した言葉の数々でした。サドの言葉には、作品に劣らぬ力がありました。

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ジャン・オーギュスト・ドミニク・アングル「アンジェリカを救うルッジェーロ」1819年,油彩・画布,147×190cm, パリ・ルーヴル美術館

 

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エドガー・ドガ 「中世の戦争のシーン」 1863₋1865 パリ・オルセー美術館


セザンヌ 誘拐
ポール・セザンヌ 「誘拐」 1867、90.5 x 117 cm,ケンブリッジ・フィズウイリアム美術館

「神という着想を抱いたこと、それは私が人間を許すことができない唯一の過ちだ」
(サド、1797年,ジュリエットの物語)

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フェリシアン・ロップス「誘拐」1882,パリ・Mony Vibescuコレクション


ルソー
アンリ・ルソー 「戦争」 1894年ごろ パリ・オルセー美術館


「残虐性、それは、文明がまだ少しも堕落させていない人間のエネルギーに他ならない」
(サド,1795年,ジュリエットの物語)



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フェリックス・ヴァロットン 「マイナスたちに引き裂かれるオルフェウス」 1914年、ジュネーブ・ジュネーブ歴史美術館

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マックス・エルンスト「不安定な女」1923,油彩・画布,デュッセルドルフ,Nordrhein Westfallen Art美術館


「これを出版することをなぜ恐れるのか。(…)紛れもない真実が自然の神秘を暴くとき、それほどまでに人間は、恐れおののくのか。哲学はすべてを語らなければならない」
(サド、ジュリエットの物語,1797)


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ハンス・ベルメール ,「人形」,1935年 ウブギャラリー&ベルリン ギャラリーベリンソン


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マン・レイ 「トルソー」1936,パリ・個人蔵

「戦争や宗教上の殺戮による死傷者は、5000万人と見積もられている。その中に、たった一羽の鳥の血に値した者が一人でもいるだろうか」
         (サド、真実のためのノート,1787年ごろ)



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エドワード・バーン=ジョーンズ「運命の女神の車輪」1875-1883,油彩・画布,200×100 cm,パリ・ オルセー美術館


 サドは虐待と放蕩の罪で、パリの刑務所と精神病院に入れられました。国王からも、ナポレオンからも、ロベスピエールからもすべての権力者から迫害されました。サドは、放蕩三昧の無神論者であり、「不道徳の極み」で「社会に無用」な存在と見なされたからです。

 人生の3分の1を監獄や精神病院に幽閉されながらも、精力的な執筆活動を続け、ベストセラーを生み出しました。サドの作品は暴力的なポルノグラフィーを含み、道徳的に、宗教的に、そして法律的に制約を受けず、哲学者の究極の自由(あるいは放逸)と、個人の肉体的快楽を最も高く追求することを原則としています。長い間、発禁本だった本もあります。

  サディズムという言葉は、彼の名に由来します。サドはいっさいの悪徳と犯罪を人間固有の自然の欲求のあらわれとして擁護し,人間の伝統的かつ古典的な価値を支えている諸情念をきびしく拒否します。それらの諸情念は,サドの言いかたにしたがえば,人間の根源的な欲望のあらわれである放蕩の「純粋な情念」の行為を妨げるものにほかならないのです。

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ウジェーヌ・ドラクロワ 「激怒するメディア」1838年,油彩・画布,260 × 165 cm,リール市立美術館

 展覧会を企画・監修した、アニー・ル・ブラン(1942~)は、作家で、サドに関する本を出版しています。タイトルの「太陽を攻撃する」ですが、太陽は「太陽のような理性の光」ととらえることも可能で、サドは、啓蒙思想を攻撃する哲学者という意味も含まれているのかなと思いました。

 サドは、先駆者であり、ある意味、人間の心の闇を暴き続けた哲学者であり、サディズムという概念(言葉を名づけたのは、クラフト・エビングですが)を彼の人生を持って表現したのだと思います。

 人間の残虐性を描いた作品は、サド以前にも、芸術の中にも、ギリシャ神話(例:メディア、オルフェウス)や宗教画(例:サンセバスチャン)などという形で表現されてきたのですが、シュルレアリスト(マックス・エルンスト, ハンス・ベルメール、マン・レイ…)たちが、より自由に表現するようになりました。展覧会では、そういう流れも見ることができました。フランスの画家、アンドレ=エメ=ルネ・マッソン(André-Aimé-René Masson、1896 - 1987)もシュルレアリストの一人で、サドの書籍の挿絵やジョルジュ・バタイユの「眼球譚」(1984年)なども担当しています。

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アンドレ・マッソン 「グラディーヴァ」 1938-1939,油彩・画布,パリ・ポンピドー・センター

 本当は性器や性交を表現した作品がたくさんあるのですが、自己規制で、このブログでは紹介していません。一方、本当の死体やリンチの写真が数は少ないですが、あったのですが、カタログですら、私はまともに見ることができませんでしたので、もちろん載せませんでした。

 20世紀人類は戦争の世紀を迎えますが、展覧会には、そういう写真はありませんでした。ふと、子どもの頃に見て、夜眠れなくなった原爆投下後の写真の残酷さを思い出しました。考えてみれば、第二次世界大戦中には、オルセー美術館の建物は、駅兼ホテルで、ドイツ軍の司令部が置かれていた時期もありました。

 人間の残酷さというのは、サドの想像力をも超えてしまっているのかもしれません。サドは、「我が名が世人の記憶から永遠に消し去られることを望む」という遺言とともに亡くなりましたが、サドの遺言とは反対に、二世紀を経て人間の本質を突いた哲学者として再認識されてきたと感じる展覧会でした。

以上の写真は、サド展で展示されていたもの

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このブログを書くに当たって、この333頁の大きな図録を大学の図書館から借りてきました。残念ながら、図録には作品の大きさが書いていません(調べて分かったものだけ、大きさを載せました)。

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こちらは、パリ市立図書館で借りたサドの小説。今では、気軽に借りることができます。


メモ サドは、バスティーユ牢獄に11年、コンシェルジュリーに1ヶ月、ビセートル病院(刑務所でもあった)に3年、要塞に2年、サン・ラザール監獄に1年、そしてシャラントン精神病院に13年入れられたともいわれています。バスティーユ牢獄は存在しませんが、google mapで確認したところ、ビセートル病院、シャラントン精神病院は、今もパリ郊外の病院のようです。また、サドは南仏ラコスト村の領主で、村を見下ろす丘の上に廃墟になった彼の城が残っています。機会があれば、訪れてみたいですね。
2016/02/18

ユベール・ロベール                      建築を描き続けた歴史の証人

この建物なんだと思います? パリの東駅近くにあって、私もよく行く場所なんです。

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 正解は、図書館。メディアテック(日本語だとメディアセンター)といってCDやDVDも充実しています。中は、日本の漫画のフランス語版も100冊以上置いてますよ。私も、日本の漫画「モンスター」と「さくらん」のフランス語版を借りてみました。

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 ハイテクで、本を係員に渡さずとも、この機械だけで、貸し借りができちゃいます。これだったら、何を借りても恥ずかしくないですね。一度に借りられる本は20冊まで。

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 で、ここからが、このブログのテーマの歴史なのですが、ここは、17世紀は何だったでしょうか?ヒントは、これ。
四方から外からの写真を撮ってみました。

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最大のヒントはこの建物の窓
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 答えは、監獄。ここは、サン・ラザール監獄といって、サディズムの語源にもなった、あのマルキ・ド・サドも、収監されていた場所なんです。まあ、残っているのは、おそらく、その監獄の一部だけですし、改築されてもいるので、当時とは変わってしまっているのかもしれません。そして、監獄であったことは、不名誉な歴史なのか、改築され原型があまり残っていないからなのか、フランス語でも、説明があまりありません。唯一見つけた説明版の一部がこちら。

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中庭にある説明版の一部

 きょうは、このサン・ラザール刑務所に収監されていた画家、ユベール・ロベール(Hubert Robert 1733-1808)のお話です。
 え、知らない? Wikipediaの日本語版にも説明はないし、日本では、あまり有名じゃないかもしれないですね。2012年に日本各地でロベールの展覧会が開催されたようですよ。

 2月に訪れたときは、パリのルーブル美術館には、彼の大きな絵がたくさん飾られてました。そして、パリのルーブル美術館には、2016年3月7日から、ユベール・ロベールの企画展が開催されます。2016年5月30日まで。
 たとえば、これ。想像で破壊されたルーブル美術館を描いた絵です。彼は、なぜ、破壊されたルーブル宮を描いたのでしょうか。そこには、どんなメッセージが込められているのでしょうか?


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図1 廃墟となったルーヴルのグランド・ギャラリーの想像図,油彩・画布,114×146cm,パリ・ルーヴル美術館,1796年


 そして、ポン・デュ・ガール、ニームの古代遺跡など4枚シリーズでフランスの遺跡を描いた大きな絵4枚もルーブル美術館日本式3階(フランス式2階)に飾られています。これらの絵はルイ16世によって、1787年にフォンテーヌブロー宮殿に飾るために注文されたものだそうです。(p124,Louvre  secret et insolite)

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図2、ポン・デュ・ガール,油彩・画布,242 × 242 cmパリ・ルーヴル美術館,1787年



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図3、ニームのメゾン・カレ,古代闘牛場とマーニュ塔,油彩・画布,243 × 244 cm ,パリ・ルーヴル美術館,1787年

 そのお隣に、ロココ美術の巨匠となるジャン・オノレ・フラゴナール(1732-1806)の大きな絵も飾られていました(2月)。一歳違いの、この二人の画家は、イタリアで出会って若いころから友達で、影響を与え合ったようなので、隣同士に大きな絵が飾られて喜んでいるかもしれないですね。
 ルーブル美術館は広いです。モナリザなどの有名な絵の付近には、人だかりがしていますが、この辺りの部屋なら、私はいつもゆっくり見ることができています。(3月に行ったところ、企画展のため、ロベールの絵は企画展の方に移動していました)

 ロベールの人生を見てみましょう。1733年、スタンヴィル伯爵(後のショワズール公)の従者の息子としてパリで生を受け、1754年からスタンヴィル伯爵に随行するかたちで、当時、遺跡発掘が流行していたローマへ留学。同地では伯爵の後援もありアカデミー・ド・フランスの給費生の地位を得て、デッサンや版画などを学ぶ。イタリア滞在時に自身の画風を確立し、記念的建築物や古代的風景作品を手がける。

Roma
図4 コロッセオ(ローマ),油彩・画布,マドリード・プラド美術館,1780₋1790年

  1765年、32歳になったロベールは、11年ぶりにパリへと戻り、王立絵画・彫刻アカデミーの建築画家として正会員に迎えられ、様々な画題による優れた風景画を制作。特に1767年、サロンに出品した廃墟画が評判を呼び、美術評論家で哲学者のドゥニ・ディドロ(Denis Diderot、1713 - 1784)に絶賛される。「廃墟のロベール」と呼ばれ、人気を博した。1777年からは王室庭園設計師に、さらに1784年からは王立美術館ルイ16世絵画コレクションの管理者に任命される。

事故
図5  事故,油彩・画布,60 × 74 cm,パリ・コニャックジェイ美術館,1790-1804年 


パレロワイヤ
図6 1781年のパレ・ロワイヤルのオペラ座の火事,油彩・画布,171×126cm ,パリ・ルーヴル美術館,1781年


  で、そんな彼がなぜ、監獄にいたのかって?フランス革命では、王に仕えていた人たちは、逮捕されるわけです。王宮に住んでいた60歳のロベールも1793年10月逮捕され監禁されてしまいます。そして、彼には死刑判決。。。ロベールは最初、Sainte-Pélagie監獄にいて、サン・ラザール監獄にいたのは、1794年1月31日から8月4日、約半年です。

 もっとも監獄とはいえ、ある程度の自由はあったようで、監獄の中でも、彼は絵を描き続けました。
死刑を言い渡され監獄にいても絵を描き続けるなんて、さすが根っからの画家ですね!
彼が監獄の中で描いた絵3枚をパリのカルナバレ博物館で見つけました。この博物館には、ロベールのもっと大きな絵もありますが、刑務所で描いた絵は正確な大きさは分かりませんが、あまり大きくないです。

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図7 サン・ラザール監獄の廊下,油彩・画布,パリ・カルナバレ博物館,1794年


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図8 サン・ラザール監獄囚人のレクレーション : ボール遊び,油彩・画布,パリ・カルナバレ博物館,1794年

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図9 サン・ラザール監獄囚人への配給,油彩・画布,パリ・カルナバレ博物館,1794年


 またこの時期には、いくつかの彼の作品も壊されました。例えば彼がデザインした、ベルサイユ宮殿にあった、 500席の劇場(1785年着工、1786年竣工)は取り壊されてしまいます(wikipedia)。フランス革命が89年からなので劇場として使われたのはたった3年だったのですね。残っていれば、観光客も、もっとロベールの名を耳にしたのかもれませんね。

 運よく、死刑を免れたロベール。ロベスピエールの失脚により、ロベールは1794年8月4日に釈放されます。1795年から1802年まで、ロベールはルーブル美術館設立のための学芸員を務め、グランド・ギャラリーのデザインを任されました。そのデザイン画が下の作品です。

ルーブル
図10 ルーヴル美術館グランド・ギャラリーの改造計画,油彩・画布,112×143cm ,パリ・ルーヴル美術館,1796年

 前回のノートルダム大聖堂の話のときに、フランス革命の後の恐怖政治時代に教会などを破壊した話が出ましたが、まさに、ユベール・ロベールは、破壊された教会なども絵にしています。

破壊教会
図11解体中のフィヤン教会,油彩・画布,パリ・カルナバレ博物館
  この教会はサントノレ通りのフィヤン修道院の一部でした。フィヤン修道院は革命家クラブの会合の場所となり、その一部は憲法制定議会、国民公会1792₋95としても使われたそうです。教会はカスティグリヨン通り建設のため取り壊されました。(カルナバレ博物館の説明より)

ソルボンヌ
図12身廊のアーチ天井が崩壊したソルボンヌ礼拝堂,油彩・画布,パリ・カルナバレ博物館,1800年ごろ


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図13 サン・ジャン・アン・グレーヴ教会の解体,油彩・画布, ,パリ・カルナバレ博物館,1800年
 


 さて、図1のロベールの絵、なぜ、彼が想像で、ルーブル宮のグランド・ギャラリーの破壊された絵を描いたか、分かりましたか? 実は、私も、きちんと答えられるほど、この絵について調べたわけではありません。この絵は、ルーブル宮への美術館(現在のルーブル美術館)設立の3年後に描かれました。グランド・ギャラリーには大事な絵が展示されていたはずなのに、なぜ破壊された絵を描いたのでしょう。
 この絵の中には、瓦礫が散らばり、その中には壊された彫刻もあります。一方、破壊された瓦礫の中で、彫刻を模写する画家の姿が描かれています。どのような逆境の中でも描き続けたロベール。ここに描かれた画家は、どんな時代にあっても、芸術を残そうとしたロベールの精神を表しているような気がしました。彼は、この絵を通して芸術遺産の継承について、みんなに考えてほしかったのかもしれませんね。 

 1808年に生地パリで死去。後継者はいませんでした。叙情豊かな風景表現のロベールの絵ですが、カルナバレ博物館には、今はなきバスティーユ監獄を描いた絵もあり、歴史を写し取った証人でもあるのです。

図1-13すべてユベール・ロベール作
今回のパリでの旅程 メディアテーク・フランソワーズ・サガン(10区)→ルーブル美術館(1区)→カルナバレ歴史博物館(3区)→コニャック・ジェイ美術館(3区)
  

参考文献 
カルナバレの展示,ルーブルの展示
Wikipedia,Hubert Robert フランス語版
Louvre  secret et insolite,Daniel Soulié, Parigramme, Louvre Édition,2011

Wikipediaによると、このほか、パリではニッシム ド カモンド美術館にロベールの絵があるほか、パリ以外に、バランス美術館(フランス)、ブザンソン美術館(フランス)、エルミタージュ美術館(ロシア)などにもあるそうです。


2016/02/16

パリ・ノートルダム大聖堂               怪物とともに空中散歩

  初めてパリに来る若い人に、パリの見所を尋ねられたなら、ノートルダム大聖堂(Cathédrale Notre-Dame de Paris)の塔に登ることをお奨めしたい。「晴れた風のない幸運な日があって、387段の狭い螺旋階段を登る元気があるなら、一度は登る価値のある場所だ」と。

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  ゴシック建築を代表するこの建物の塔に登って、喜んだのは、精神分析の父とも言われる精神科医、ジークムント・フロイト(Sigmund Freud、1856 - 1939)も同じだったようだ。パリに留学した際に2回も登ったという。ノートルダム (Notre-Dame) とはフランス語で「私達の貴婦人」という意味で、聖母マリアを指している。ノートルダム大聖堂は、聖母マリアに捧げられ、ノートルダムを冠した教会堂はフランス各地の都市に建てられてきた。

  最近は、雨の日が多いパリだが、今月初めこの塔に1人で登ってきた。午後少し晴れ間が見えたので、風が強い寒い日だったが、1時間以上列に並んで、登った。今日は、2月前半のパリのここから私が撮影した写真をアップする。テレビもネットも飛行機もない中世に、この塔に登った人たちは、ここからの景色をどんな感慨を持って眺めたことだろう。中世のこの大聖堂付近は、今よりもっとごみごみと密集していて、パリは小さな城壁に囲まれていた。彼らは、塔の上で、何を思っただろう。

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  パリのノートルダムのあるシテ島はそもそも、紀元前の昔から由緒正しい聖地だったという。紀元前三世紀にシテ島内に定住したケルト人のパリシイ族は、彼らの生活基盤である水上交易の基点として、川辺のこの場所に守護神の祭壇を建てた。前52年頃にガリアを征したローマ人も、ここに船員組合の本部を置き、ジュピターやヴィーナスなどの神を祀った。6世紀初めになり、フランス最初の王朝、メロヴィング朝がパリに都を置き、キリスト教を国教とすると、古来の聖地に初めてキリスト教の聖堂が建てられた。

  王宮と聖堂のあるシテ島を中心に、パリは都市として発展する。12世紀半ば、名実ともにパリが西ヨーロッパ文化の中心地となると、シテ島の聖堂を王都にふさわしい大聖堂にするための建設が始まった。大聖堂とは司教の座るイスがある聖堂のことで、12世紀以降、ヨーロッパの大都市にはその象徴的存在として次々と大聖堂が建てられた。

 聖堂の工事は内陣からはじまる。ミサなどの祭儀を行えるからだ。1163年、着工され、東の後陣側から起工、まず内陣部分をととのえ、西正面と鐘楼は1250年ごろ完成した。最終的な竣工は1345年。200年近くの歳月がかかっている。工事が進み、その全貌が明らかになった時、パリの人々は衝撃を受けたという。西側正面の2つの塔は、空に向かって垂直に伸び、窓が大きくとられた壁面には、繊細な彫刻が施されてる。全長127.50m、身廊の高さは32.50m、幅は12.50m、それまでにない壮大なスケールの大聖堂だった。
  この大聖堂は、「パリのセーヌ河岸」という名称で、周辺の文化遺産とともに1991年にユネスコの世界遺産に登録された。ところで、「遺産として文化財を保護しよう」という考え方は、フランス革命後の世相と、深く関係している。
 1789年のフランス革命以降、恐怖政治の時代に、自由思想を信奉し宗教を批判する市民により、大聖堂の破壊活動、略奪が繰り返されていた。パリのこの大聖堂も例外ではなく、1793年には西正面の3つの扉口および、王のギャラリーにあった彫刻の頭部が地上に落とされた。ノートルダムの歴史を語る装飾が削り取られ、大聖堂は廃墟と化した。

  「ヴァンダリズム」(vandalism,文化財などの破壊行為の意味)という言葉は、1794年に、ブロワの司祭アンリ・グレゴワールが初めて使ったものだ。多数の宗教芸術や建築物が破壊される中、ヴァンダル族の野蛮な破壊になぞらえて「ヴァンダリズム」と呼び、芸術や建築の保護を訴えたことから生まれた言葉だという。

 フランスの作家、ヴィクトル・ユーゴーの小説「ノートルダム・ド・パリ」の出版が、国民全体に大聖堂復興運動の意義を訴えることに成功し、この大聖堂は、1843年、ついに政府が全体的補修を決定した。

 「ノートルダム・ド・パリ」のあらすじは、だいたいこうだ。舞台は、荒んだ15世紀(1482年)のパリ。ノートルダム大聖堂の前に、一人の醜い赤ん坊が捨てられていた。彼は大聖堂の助祭長フロロに拾われ、カジモドという名をもらう。成長し、ノートルダムの鐘つきとなる。パリにやって来た美しいジプシーの踊り子エスメラルダに、聖職者であるフロロは心を奪われる。欲情に悩み、ついにはカジモドを使ってエスメラルダを誘拐しようとする。しかしカジモドは捕らえられ、エスメラルダは衛兵フェビュスに恋するようになる・・・
 
 文化財保護は、この時代の別の作家とも関係していた。小説『カルメン』の作者として知られるプロスペル・メリメ(Prosper Mérimée、1803- 1870)は、歴史家、考古学者、官吏でもあり、フランスの歴史記念物監督官として、多くの歴史的建造物の保護に当たった。1831年にフランス歴史記念物監督官に就任。メリメが、この大聖堂復元の功労者として知られるウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュク(Eugène Emmanuel Viollet-le-Duc 、1814-1879)にフランスの建築物の最初の修復作業を求めた。

  ヴィオレ・ル・デュクは、1330年のノートルダム大聖堂を想定し、復元に努めた。1845年に修復が開始され、1864年に修復は完了した。

  2月初めに登ったときのことを書いておこう。塔の入り口は、大聖堂正面に向かって左の北塔側にある。入り口付近にフランス国立記念建造物センターのパンフレットが置いてある。図1は、このパンフレットの図を写真に撮ってここに載せてみた。

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図1 パンフレットの図


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図2 東側後方斜めから見た、ノートルダム大聖堂の見取り図 

  列に並んで待って自分の番になっても、階段をしばらく登って、図1の1の高層広間で、しばらく待たないといけない。狭いので、見学者の人数制限のため係員が、時間調整しているのだ。ここでは、大聖堂に関連するお土産や本を買うこともできるし、じっくりとオジーブの天井のあるこの広間を見るのもいい。

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高層広間のオジーブの天井


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狭い階段を登っていく

 係員の誘導に従い、さらに登って、地上46メートルのキマイラの回廊へ(図1、2)。 回廊は聖堂の向かって左側の北塔と右側の南塔を結んでいる。「キマイラ」(Chimaira)はギリシャ語で、ギリシア神話に登場する架空の怪物のことである。フランス語では「シメール」(Chimere)という。一説には外部から悪魔が入り混むのを阻止するために見張ってるとか…

ここからは、13枚のキマイラの回廊で撮った写真。どの写真にも怪物が映っている。同じ怪物が大きくなったり、アングルが変わったり・・・

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 ここからは遠くに、エッフェル塔、モンマルトルの丘も見え、セーヌ川とその橋などパリの町全体の眺望がすばらしい。しかし、狭い螺旋階段を登って、同時によく見てほしいのは、これらの奇妙な怪物の彫刻たち、大聖堂の屋根など、中世の趣を残す、ノートルダム大聖堂の建築そのもののだ。 

 小説の中のカジモトは大聖堂の鐘つきだったが、大きな鐘も見ることができる。4で小さな入り口を入り、階段を登ると、「エマニュエル」と呼ばれる17世紀につくられた大鐘も見ることができる。その重さ約13トン、鐘舌だけでも500キロあるそう。カトリックの重要行事においてだけ鳴らされていて、毎日鳴らされているのは、見学することはできない北塔の4つの鐘なのだという。

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大きな鐘


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「エマニュエル」はより大きな手前の鐘だと思う。たぶん・・・・

 さらに南塔(正面右側)の頂上まで登り、東西南北の360度のパノラマへ(図1の5、6、7、8)。7でじっくり見てほしいのは、大聖堂の交差部にある尖塔である。この尖塔は、倒壊の危険があるため一時撤去されたが、前述のヴィオレ・ル・デュクらが修復に乗り出した。彼は、残っていた尖塔のデッサンを発展させて、以前よりも10メートルほど尖塔を高くし、また尖塔基部の周囲に福音史家と十二使徒の彫像を付加したのである。これは大幅な現状変更であり、また彫像のモデルがヴィオレ・ル・デュク自身や工事に携わったスタッフたちなどであったことが、その後大々的に批判を浴びた。正確な復元に拘泥することなく、より美しく飾り立てたともいえる。今で1は、それも、歴史の一部になってしまった。近くにサンルイ島も見える。

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南塔(正面右側)の頂上での写真は7枚。この写真では尖塔と、尖塔基部の周囲に福音史家と十二使徒の彫像を見ることができる


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正面に見えるのがサンルイ島

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南塔の頂上からは、警視庁の全体が見える。


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右が北塔。遠くには、モンマルトルの丘も見える


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ここからならシテ島の形も分かりますね

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南塔の階段を下っていく。転ばないようお気を付け下さい



参考文献
パンフレット(フランス・国立記念建造物センター) 
ウイキペディアのノートルダム大聖堂,ヴァンダリズム,ノートルダム・ド・パリ、ウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュク…  
2016/02/14

シスレーが描き続けたモレ・シュル・ロワン           逆境の中でも揺るぎない静寂と美しさ  

  一回目が三角関係、二回目が四角関係と激しい恋のお話だったので、今回は、一服の清涼剤のような、モレ・シュル・ロワンのシスレーの絵について、主題となった穏やかな風景の中に佇みながら、語ってみようと思う。
 
  パリ・リヨン駅から列車で約50分。12世紀の城壁に囲まれた町、モレ・シュル・ロワン。フォンテーヌブロー宮殿に王室があったころには、シャンパーニュ地方とブルゴーニュ地方の境に位置する要塞として、重要な役割を果たしてきた。かつては20の塔があったそうだが、いまは2つの門の塔が残っている。印象派の画家、アルフレッド・シスレー(Alfred Sisley,1839-1899)が住んだ町としても知られる。

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モレ・シュル・ロワンの入り口、サモワ門


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左手の建物が、観光案内所。左上の胸像は、アルフレッド・シスレーその人への敬意を表している。右奥に、サモワ門が見える。

  この町は小さい。サモワ門を入ってまっすぐ歩くとすぐに広場に突き当たる。この広場の昔ながらの佇まいを残す木組みの家の建物が残っている。メインストリートの大通りを突き抜け、ブルゴーニュ門をくぐれば、もう町の外。石造アーチの橋を渡り切って左に曲がると、川辺に、絶景を望む場所がある。


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図1 モレ・シュル・ロワン,油彩,65 x 92 cm ,個人蔵,1891

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図1が描かれた付近からの2015年の眺め


 ここからは、一枚の絵のような、ロワン川の水辺の風景が素晴らしい。水車のある河畔、流れる水の音、水辺に落ちる柳の葉。春から秋にかけて、一年に一度は訪れたくなる場所だ。川は工事の手が入っておらず、水は清流。白鳥や水鳥。シスリーも石造アーチの橋と対岸のモレの街を望む、この川岸で何枚か絵を描いたが、その一枚がこの絵(図1)だ。澄み切った空。水面で戯れる光と影。心地良い静けさ。透明感ある華やいだ絵に心癒される。

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石橋のアーチの橋からの景色も美しい。

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図2 モレの粉ひき小屋 油彩,54 x 73 cm,ボイマンス美術館  ロッテルダム,1883 


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図3 モレの橋,油彩, 65 x 92 cm ,オルセー美術館,1893
 
 アルフレッド・シスレーは、パリの裕福な実業家の家に生まれたイギリス人。絹を扱う貿易商の父から十分な援助を得ており、貧しい画友たちに援助を惜しまなかった。しかし、普仏戦争勃発(1870年)で財産すべてを失い、父の援助もなくなり、突如、絶望的な貧困生活に陥る。後半生、他の印象派画家たちが次々と成功していくなか、同じく印象派の創始に参加したシスレーだけが、最後まで、金にも名声にも縁がなかった。

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図4 授業,1871年ごろ,個人蔵,(珍しく風景画でない絵があったので紹介する) 

 それでも地道に、黙々と、イル・ド・フランスのセーヌ河畔の村々を転々としながら、風景を描いた。生涯、ただただセーヌの水辺と空を、画風の起伏も冒険もないまま、ほとんど一人で描き続けた。シスレーの900点近い油彩作品のうち大部分は、風景を題材にした穏やかな風景画で、戸外で制作したと見られる。他の印象派の画家の多くが、後に印象派の技法を離れたなかで、シスレーは終始一貫、印象派画法を保ち続けた。
 印象派の父と言われたピサロは、マチスに印象派の典型的画家は誰かと問われ、迷わず「シスレーです」と答えたという(p16,1992オルセー美術館等シスレー展カタログより)。

 パリの西側地域を転々としていたシスレーは1882年9月からモレに住んだ。1886年モレ近郊のヴヌーに移り住んだが、1889年11月にまたモレに住み始める。(前述のカタログ年表で確認p276-281)趣のあるモレの街並みに惹かれ、しばしばロワン川のほとりを描いた。作品を売って生活しなければいけなくなっていたが、作品はなかなか売れず、以後死ぬまで困窮した中で生活した。
 シスレーは、1893年から翌年の1894年にかけて、この町のノートルダム教会を連作で14点(1893年に5点、1894年に8点制作)描いている。ちょうど、印象派を代表する画家、クロード・モネがルーアンの大聖堂を描いていたころの話だ。田舎の教会に美しさを見出し、徹底して描き続けた。12世紀から15世紀にかけて造られたという、この教会は今も、絵の当時とあまり変わらない姿を残している。
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図5 朝の日差しを浴びるモレの教会 , 80×65cm,油彩,ヴィンタートゥール美術館(スイス),1893

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図6モレの教会, 100×81cm,パリ・プチ・パレ美術館,1894


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実際の最近のモレの教会


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図7 同じ教会でも落ち着いた色のこんな絵もある。


 シスレーの描いた教会の隣には、15世紀に建てられたという歴史のある古い建物がある。ここは、昔ながらの飴を作り続けるお菓子屋さん。1683年から修道女らがこの飴を作り始めた。自然な大麦から作られる贅沢な甘味は、歴代の王族をも魅了したという。現在はこの町の銘菓になっている。シスレーが口にしたこともあったのだろうか。

 シスレーが晩年貧しい生活を送った彼の住居兼アトリエもまた、教会から遠くない場所にある。シスレーは死ぬまで所有者になることができず、公開はされていないが、プレートが掲げられている。1897年にはパートナーのウジェニーとイギリスを訪れ、結婚した。ウジェニーは彼によく尽くし、彼も愛妻家だったそうだ。そのウジェニーが1898年亡くなる。それから4か月後の1899年1月29日、シスリーは、癌に冒され、ここで、ひっそりと59年の生涯を閉じた。

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オーギュスト・ルノワール,「シスレーの家庭」油彩,75 x 105 cm,ドイツ・ケルン・Wallraf-Richartz美術館,1868(若いころは裕福だったので、このように肖像画を描いてもらったりしてたようだ)

 クロード・モネが駆けつけ、そのあまりの貧しさを嘆いたという逸話も残っている。フランスの市民権を得ようと試みたが、それを得ることもできず、イギリス人のまま死を迎えた。(彼の絵からは、フランスの大地への愛がだれよりも伝わってくるというのに!)

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シスレーが住んでいたことを示すプレート


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シスレーの元住居兼アトリエ付近の風景


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シスレーの元住居兼アトリエ付近で、私なりの絵になる景色を探してみた


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図8 モレのタネリー通り、油彩,55 x 38cm,ニューヨーク・個人蔵,1892


  今日では、シスレーのモレ・シュル・ロワンを描いた作品は、パリのオルセー美術館やプチ・パレ美術館などで見ることができる。また、モレの町や町はずれに、彼が描いた絵のパネルが設置されている。私は、何度か、シスレーがこの街で絵を描いた場所を紹介したパンフレットを買って、彼の絵のパネルを目指しながら、歩いてみた。


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 「シスレーの友達」発行のパンフレットにあった地図 パネルのある場所が1-12の数字で示してある。1が教会、6、7付近からロワン川の向こうに中世の街並みを望む絶景の場所。このブログで紹介した図3の絵のパネルは5、図8は2にある。8,9,10,11,12は町から離れていて、人気のない自然の中にある


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図9 モレのポプラ並木,パリ・オルセー美術館

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図10モレのロワンの運河, 73 x 92 cm パリ・オルセー美術館,1892

  ノートルダム教会や彼のアトリエ近くの小路、対岸が見渡せる川の岸辺など見つけやすい場所にもパネルはあるが、林の中とも言えるような、木々に囲まれた場所にパネルを見つけたこともあった。散策するなら穏やかな天気の日に、歩きやすい靴で出かけることを勧める。

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この写真は、町はずれのシスレーの絵のパネル。残念ながら風景が絵とまったく同じではなく、せっかくこんなに歩いて探し回って・・・とがっかりすることも。

 シスレーのパネルを探せば、彼が絵にしたくなる理想の美しく穏やかな風景を探し回ったことがよく分かる。豊かな感受性と詩情を持ちながら、成功とは縁のなかったシスレー。オルセー美術館の図録を見る限り、初期期のころ以上にシスレーの使う色は晩年、より鮮やかになっているように思える。経済的困窮の中でも揺るぎない明るい静寂さ。そして、また、彼の理想とした風景は、柔らかな光の中では、今も変わらず美しい。どんなに貧しくても、贅沢な一生だったと思わせるほどに。
    
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図11 サン・マメスのロワン河畔の風景 油彩、カンヴァス 鹿児島市立美術館,1881 

図1-11 すべてアルフレッド・シスレー作

追記
日本にもシスレーの作品は多くあり、2015年には練馬区美術館でシスレー展が開催された。シスレーの作品は20点あり、すべて日本国内所有のものだったそうである。

メモ パリ・リヨン駅で、MORET VENEUX LES SABLONS駅下車(約50分)。そこから徒歩約1キロ、20分旧市街地に着く。駅を出たら左手にまっすぐの道が旧市街入口のサモワ塔の門につながっている。その門をくぐる手前の左手に観光案内所がある。日本語の散策ルートのパンフレットや地図も配布している。その観光局と同じ建物の中には、その地に縁りのある美術品や陶芸などを紹介する美術館もある。絶景の川辺の原っぱに腰かけ、その景色を堪能しながらサンドイッチを食べてもいい。近くのレストランのテラスから、その景色を堪能しながら、食事するのもまた、格別だ。


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主な参考文献
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2016/02/13

ニコラ・ド・スタール 道ならぬ恋の結末      アンティーブを歩きながら

 日本では、ベッキーとゲスの不倫騒動が収まらないようだ。ついにイギリス、英紙ガーディアンも「日本の芸能界にはびこる性差別」などと報道したらしい。

 ピカソは妻のほかに愛人が何人かいて、愛人同士の喧嘩を喜んで見ていたという。だからといって、「ピカソの絵を教科書に載せるな」という話は、日本でも、聞いたことがない。これはピカソが男性だからなのか、それとも、芸術の世界は、芸能界よりも、もっと自由だからなのか。

 さて、この絵について考えてみよう。作者は、ロシア生まれの画家、ニコラ・ド・スタール(Nicolas de Staël、 1914年1月5日 - 1955年3月16日)。

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図1  横たわる青い裸婦,油彩,アンティーブ・ピカソ美術館,112 x 74 cm,1954

 私は、2014年夏、アンティーブのピカソ美術館の側のアパートに10日間滞在した。そのアパートの部屋の中で、アパート所有者のニコラ・ド・スタールの3冊の画集を見つけ、ピカソ美術館で開催されていた、スタールの展覧会を見る機会を得た。この絵は、その展覧会のポスターにも使われていた。背景の赤の色がとてもきれいで、ブルーと白が映えている。シンプルだが、エネルギーに満ちている。ピカソ美術館の白い壁にかけられた、この大きな絵は、強い印象を残した。

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アンティーブ・ピカソ美術館

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スタールのアトリエのある海沿いの通り

 この絵を描いた翌年、スタールは自殺した。滞在したアパートにテラスがあり、少しだけ地中海が見えたが、スタールが住んだというアパートからは、一面の海が見えただろう。夏のアンティーブは本当に素敵なところだ。旧市街は花があふれ、散策するだけでも心地がいい。夏に打ち上げられる花火をスタールのアパートの前の通りから見た。彼のアパートの窓からならば、花火も見えたろう。こんないいところに住んでいて、画家としての成功も手にしてなぜ ?… それは、私にとって不可解であり続けた。最も、スタールが自殺したのは、3月で、冬には風が強く、海も荒れ狂う日もあったかもしれないが。

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左の建物の2階にスタールのアトリエがあった。奥に城塞が見える。L’atelier de Nicolas de Staël (2ème étage) à Antibes © Edouard Dor
このサイトより転載https://bruelle.wordpress.com/2010/06/30/nicolas-de-stael-le-concert/

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花にあふれるアンティーブ旧市街の小路,アトリエの場所から徒歩1分かからない場所

 この絵を描いた 1954年当時、スタールは、結婚していて、子どももいた。1954年は、妻との間に末の息子、ギュスターブが生まれた年だ。この絵は、南仏メネルブに買ったばかりの谷を望む小さな城の中で、愛人を描いたものだとされている。

 スタールの人生を見てみよう。サンクトペテルブルクにロシア貴族の子息として生まれる。1919年、ロシア革命のため、一家はロシアを離れ、ポーランドに亡命。父を1921年9月、母を1922年8月に失い、姉、妹とともに三人の孤児となる。 兄弟は、母の友人のつてで、ベルギーの上流階級の家庭に引き取られ、しっかりとした教育を受ける。養父は技師になることを望んだが、スタールは、絵画と文学に興味を持ち、ブリュッセルの王立美術学院で絵を学ぶ。画集の中の写真を見る限り、ハンサムな身長194センチの男性だ。

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 スタールの写真

 旅が好きで、1935年から、スペイン、モロッコ、アルジェリア、イタリアなどを旅する。マラケシュでフランス人女性、ジャニーヌ・ギユーというブルターニュ地方出身の画家に出会う。彼女は夫と共に旅する最中だった。1939年には第2次大戦が勃発、スタールは 外人部隊に志願し、軍隊生活を送る。1940年、ニースでジャニーヌと再会、一緒に暮らし始める。彼女は、別居中の夫との間に息子がいた。1942年、ジャニーヌは娘、アンヌを出産。スタールは家具職人のもとで働いたり、建物のペンキ塗りをしたり、ジャニーヌも絵を売るのに努めた。生活は苦しかったが、当時のニースにはアーチストが集い、スタールも絵への刺激を受けた。

 1943年9月、知人の画商を頼って、ナチス占領下のパリへ。彼女の2人の子ども4人での共同生活。貧しく不自由な暮らしだった。1944年には、カンディンスキーとともに個展を開催したが、状況は好転しなかった。そして極貧の中、ジャニーヌの病状は悪化し、1946年2月、彼女は帰らぬ人となった。ジャニーヌの離婚が成立しなかったことも関係して、スタールとジャニーヌが正式に結婚することはなかったが、現在、二人は、パリ郊外モンルージュの墓地に眠っている。

 スタールは、ジャニーヌの母へ手紙を書いている。
「ジャニーヌは1946年2月27日、午前2時45分、息をひきとりました。3月4日、彼女のお気に入りの着物を着せてから、彼女の息子と私、小さなアンヌと最も大きな絵の前で、私たちは棺をとじました。墓地には雪が降っていました。私は、あなたに、私にすべてを捧げ、今日もなお私に捧げてくれている人に命を与えてくれたことに、感謝しています。」

 画家はこの頃から憑かれたように制作にのめりこんでいく。2人の子供をかかえたスタールは、息子の英語の教師をしていた、フランソワ-ズと1946年5月、21歳のフランソワーズ・シャブ―トンと結婚、彼女との間に2男1女をもうける。1948年には、フランス国籍を取得。この頃からスタールの仕事に光が当り始める。

 1950年代に入ると、フランス政府によって作品も買い上げられ、ニューヨーク、パリ、ロンドンでも個展を開催されるようになり、絵の注文も多く、経済状況も好転した。
 亡くなるまでの10年間に 制作した油絵は1000点にのぼり、最後の2ヶ月半で90点の絵画を残している。つかんだ成功をより確かなものにするために、憑かれたように、追い立て られるように制作に打ち込んだ。

 画家としてのスタールは「具象→抽象→具象」の経緯を経たと言われる。絵を描き始めた頃には、具象画を熱心に描いていた。しかし、《ジャニーヌの肖像》(1944年)を描いた時に具象に居心地の悪さと限界を感じ、具象画では描ききれないものを抽象画で描きたいと感じるようになり、抽象画を描くようになった。

 1952年、妻のフランソワーズとパルク・ド・プランスというパリのスタジアムで、日没時のサッカーの試合を観戦。選手たちの動きや色に衝撃を受け、サッカーのシリーズを多数制作する。長方形を用いた描法でサッカー選手のエネルギーの一瞬を捉えている。これが具象に回帰するきっかけになった。それ以降は、そのスタイルを用いて風景や裸体などを描く。

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図2 パルク・ド・プランス,油彩,200×350cm,個人蔵,1952

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図3、フットボール

 1953年には、妻と娘のアンヌをモデルに肖像画を制作。1944年のジャニーヌをモデルとした肖像画以来だった。
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図4 アンヌの肖像,油彩,130 x 89 cm,コルマール・ Unterlinden美術館,1953

1953年11月、南仏メネブルの小さな城を買い取る。急斜面にテラスが張り出した、谷を望む建物だった。彼は、ここで、ニューヨークの個展のための絵とともに、ヌードを描いた。ジャンヌ・マチューという女性がモデルだった。彼女は、裕福な、子供もいる人妻だった。彼女は彼にインスピレーションを与え、激しい恋に落ちた。
 ジャンヌを紹介したのは、シュルレアリスムのフランスの詩人、ルネ・シャール(1907年- 1988年)だった。スタールとルネ・シャールは、仲の良い友人で、共同で本を制作している。1953年8月には、愛人と妻、子どもたちとともに、スタールはイタリアを旅行した。

 スタールは、1954年9月、ニース近くに住むジャンヌを追いかけるかのように、家族と完全に訣別し、アンティーブで、1955年夏にパリ、アンティーブなどで開かれる個展のための絵画制作に全速力でのめり込んだ。(2014年夏にアンティーブの城塞を見学した時、スタールが描いた、この城塞の絵の絵葉書が城塞の中の小さな土産屋に、置いていて、はっとしたものだ。)

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図5 城塞,アンティーブ・,ピカソ美術館,1955

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アンティーブのヴォ―バン港の向こうに城塞が見える。スタールのアトリエからも遠くに、この城塞が見え、図5は、アトリエからの景色を描いたのではないだろうか。

 1955年3月5日、スタールはウェーベルンとシェーンベルクのコンサートを聞くためにパリに出る。3月14日彼は、絶筆となる大作「コンサート」に3日間、アンティーブで取り組む。極度の神経をすりへらし長いこと眠ろうとしても眠れなかった。

  彼は1955年3月16日夜、アトリエのテラスから8メートル下の街路に身を投げた。享年41才。3通の手紙を残した。うち、一通は、まだ13歳でしかない娘のアンヌに宛てたものだった。友人に対する最後の手紙に彼はこう書き残した。「絵を仕上げる力がなかった」。

 2014年のピカソ美術館でのスタールの展示は、亡くなる前の5年間1951年から55年の作品に絞られていた。この時期はジャンヌをモデルにし、裸婦を描いており、下絵も含め、それらの作品が展示されていた。そして、絶筆の大作「コンサート」。右手にコントラバス、左手にピアノがある未完の作品も展示されていた。やはり背景の赤がとても美しい。

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図6 「コンサート」,油彩,350 x 600 cm,アンティーブ・ピカソ美術館,1955

 スタールはなぜ自殺したのだろう。ピカソ美術館の学芸員は「ジャンヌに失恋したから」と説明したが、私には、まったく信じられなかった。スタールには生まれたばかりの子供も妻もいて、ジャンヌには夫と子どもがいた。

 2003年出版の、スタールの孫娘マリー・ドュ・ブシェが書いた本を読んで、私は、彼女が言わんとするように、スタールの絵は、激しく、極限の集中力が必要で、今回はそれが度を越してしまったのだろうととらえようとした。

 長い間貧しかっただけに、急に成功した彼は、注文が舞い込むまま、需要に応えようと頑張り過ぎたのかもしれない。最初に彼と長く過ごした女性、ジャニンヌの恩に報いきれなかったことが、彼の芸術家としての焦燥感につながったような気もした。

 ニューヨークでの個展が成功し、画商ローゼンバーグから「もっと作品を制作せよ」と強いられた時、スタールは、「私を工場と思わないでください」と悲痛な声をあげたという。過度の制作による疲労と睡眠不足による痛々しい日々。芸術に対して真摯であるが故に、完璧な芸術を作りだろうとする、もがきと葛藤の帰結が、自死につながったのだろう。

 ところが、Wikipediaのフランス語版を読んで、その考えを改めることになった。スタールは、死の直前、ジャンヌからの手紙をすべて集め、手紙を返しに行く。「あなたが勝った」と言いながら彼女の夫に手紙を渡した-。

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裸婦の習作,1952-1953, 41,3 x 53,7 cm,パリ・ポンピドー・センター (裸婦の習作は、2014年のスタール展でたくさん展示されていた。すべてジャンヌを描いたとされる)

 鮮やかで大きなスタールの絵は、ピカソ美術館の白い壁と窓の外の青い海の中で、爽やかな印象を残していた。そうして、改めて、この絵(図1)を見た。赤は、恋の激しさの赤のようにも、芸術家の血の色のようにも見えてきた。裸体の青は、山と谷の緑のようにも、海の青のようにも見えた。
 暴力的でありながら静謐。赤の背景が彼の心を代弁する。彼の作品は一見、抽象画か具象画か分からない。見る者の心理状態によっても変わる独特の世界。美しいジャンヌとの出会いは、画家を頂点に導いた。スタールが、新たな自分だけの絵画世界を生み出した瞬間だったのだ。

図1-6、ニコラ・ド・スタール作
主な参考文献は写真のフランス語の本とwikipedia のNicolas de Staël(フランス語)
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2016/02/10

ボナールの三角関係② ル・カネを歩きながら(①から先に読んでください)

 ル・ボスケ荘には、妻マルトの希望と医者の勧めもあって、バスタブのある浴室をしつらえた。のちに、連作となる浴室にいる妻をはじめて描いたのは、自殺した愛人をボナールが発見した1925年だったという(図3)。浴槽が石棺のようで、青白く描かれた肌が死体を思わせないこともないと評する批評家もいる。その後も、彼は浴室の妻を描き続けた(図4)。
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(図3)浴槽の裸体, 104.8×64.2cm,油彩,ロンドン、テートギャラリー,1925


裸婦
(図4) 「浴槽の裸婦」,油彩,パリ市立近代美術館,1936-1938


ルカネの朝
(図5)「フランス窓」または「ル・カネの朝」88.5×113.5cm,油彩,個人蔵,1932


 1942年、妻マルト死去。その後も ボナールは、マルトを描き続ける。1947年、ボナールもル・カネで生涯を終え、ル カネにあるNotre Dame des Anges墓地にマルトの傍に眠っている。

昼食
(図6)「昼食」油彩,パリ市立近代美術館,1932

 残念ながら、ボスケ荘は個人所有で見学不可だが、このル・カネには、世界で初めてのボナールの美術館がある。また、ボナールが絵を描いたと思われる場所に絵のパネルも設置しており、ボナールが見たであろう風景を探しながら坂道を歩いた。ボナールを魅了した南仏の光と自然がここにある。

 

ルカネの一角
夏のル・カネは、バカンス客も多い。2月の今なら、ボナールも描いたミモザが咲いているだろう

ポンピドーボナール
(図7)「ミモザの見えるアトリエ」油彩,127.5×127.5cm,パリ・ポンピドー・センター国立近代美術館,1939-1946

図1-7は、すべて ピエール・ボナール作。
参考文献 Pierre Bonnard Peintre l’Arcadie,Musée d’Orsay;Hazan,2015(2015年のオルセー美術館「ピエール・ボナール 理想郷を描く」展カタログ)。

  ピエール・ボナール フランスのフォントゥネ・オウ・ローズに生まれる。大学に進み法律家を志すが、20歳の時本格的に絵筆をとり、画塾アカデミー・ジュリアン、次いで国立美術学校で学んだ。1888年、ゴーガンの絵画思想をもとに結成したグループ「ナビ派」(預言者の意)のメンバーに加わり、画家のセリュジエ、ヴュイヤール、ドニらと親交を結ぶ。浮世絵の色彩や構図に心酔したボナールは、「日本かぶれのナビ」と呼ばれ、ポスターや装飾美術において才能を発揮した。また,写真技術に影響を受けた画家のひとりである。ボナールの人生で最大の出来事は、妻マルトとの出会いであったと言われるように、作品のテーマを慣れ親しんだ妻との生活の中に求めたことから「親密派」(アンテイミスト)の巨匠と呼ばれている。ナビ派に位置づけられるが、個人的にはヴェルノンに住んでいた時親交のあった、晩年のモネの絵の影響を強く感じる画家である。

追記
私自身は、2014年、ル・カネのボナール美術館で「眠れる美女展」を見学。撮影禁止だったので写真を紹介できないが、川端康成の同名小説のフランス語訳も紹介する果敢な展示でした。また昨年夏もル・カネに訪れ、散策。2015年3月から7月オルセー美術館で開催された「ピエール・ボナール 理想郷を描く」展 も見学した。


2016/02/10

ボナールの三角関係①  ル・カネを歩きながら

  南仏カンヌ市街からバスに揺られて約15分。終点でバスを降り、高台にあるル・カネの坂道や階段を上っていくと、この絵の背景に描かれたような風景に出合えるだろう。

(図1)「棕櫚の木(ヤシの木)」114.3×147cm ,油彩,ワシントン、フィリップス・コレクション,1926
(図1)「棕櫚の木(ヤシの木)」114.3×147cm ,油彩,ワシントン、フィリップス・コレクション,1926

 この絵は、1926年、画家ピエール・ボナール(1867年~1947年)がル・カネに小さな家を買取った直後に描かれた。ボナールはこの自宅兼アトリエを、地区名からとって「ル・ボスケ(木立)荘」と名付けた。この絵の遠景には、ル・カネの町並みを見下ろす眺望が描かれている。画面中央には赤屋根が特徴的な南仏の街並みとそのさらに奥へ地中海が配されており、強い陽光によって輝いている。
  前景として画面上部には棕櫚の青々とした葉がアーチ状に描き込まれている。前景の画面下部には、そして数か月前から妻になったマルト(本名:マリア・ブールサン)が描かれている。彼女は林檎と見られる果実を持って微笑んでいる。林檎には、キリスト教世界では「禁断の果実」の意味があり、不法・不道徳・有害な快楽や耽溺を表すメタファーとして使われる。特に、人間の性に関連する快楽に関連付けられる。彼女はなぜ、林檎を持っているのだろうか。

  南仏の光は強烈だが、影もまた、その光と対照的に色濃く、ひんやりとした別の世界を形作る。写真2を見ても感じてもらえるだろう。図1の絵では遠景が明るく輝いているのに対して、ヤシの木が、マルトの顔に影を作っている。ボナールは日本の浮世絵に影響を受け、あまり影を描かず、どちらかというと平面的な画面構成をする画家なのだが、この影が、画面全体に悲しみを与えている気がするのは私だけだろうか。
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(写真1)ル・カネの丘を登り、遠くに海を見る 


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(写真2)ル・カネの坂道を上る。ボナールもこの道を歩いたのかもしれないと思いながら

 「色彩の魔術師」とも呼ばれた画家 、ボナールは、病弱な妻マルトの転地療養のためもあり、1912年にはノルマンディー地方のヴェルノン、1925年には南仏ル・カネに家を構え、それらの土地を往復しながら、もっぱら庭の風景、室内情景、静物などの身近な題材を描いた。
 
 マルトとボナールの出会いは1893年。パリのモンマルトルにて、マルト24歳、ボナール26歳のときだった。それから2人はずっと一緒にいた。結婚したのはそれから32年後、ボナール58歳のとき。2人は恋人であると同時に、マルトは、ボナールにとって創作のインスピレーションを与えてくれる女神でもあった。

 結婚前の1916年、ボナールは、彼より一回り年下の金髪の娘、ルネ ・モンシャティと愛人関係になった。 1921年、ボナールはモンシャティとマルトの二人の女性をモデルとして「庭の若い女性たち」(図2)を制作、この絵は長い間画家自身が秘蔵し、マルトの死後加筆された。モンシャンティが中心に大きく描かれ、マルトは右端に追いやられている。ボナールは1921年にモンシャティを訪ね、ローマにも滞在。それでも健気にボナールを待ち続けるマルトに胸を打たれ、ようやく結婚したとも言われてる。しかし、1925年8月13日にマルトと結婚後、9月9日にパリでモンシャティは31歳で自殺。浴槽で亡くなった彼女をボナールが発見する。
 
 図1における、前景の影は、ボナールの、悲劇の死による苦しみ、これから始まるボナールとマルトの閉じられた世界を暗示しているのかもしれない。実際、彼らは、友人が「輝く牢獄」と揶揄したほど、このル・ボスケ荘に閉じこもって暮らした。それは楽園からの追放だったのか、それとも芸術の女神との愛に満ちた日々だったのか。ル・カネ時代のボナールの作品のその大部分がル・ボスケ荘とその周辺で描かれている。ただマルト一人を見つめ、マルトとの日々、生活を描き続けてゆく。

 1931年ボナールは友人であり、それまで親しく家に迎えてきたジョージ・ ブッソンに、「妻の精神疾患が悪化したので、君を迎えることができなくなった」という内容の手紙を書いている。それでも、いやそれだからこそ、ボナールの絵は、画家としての果敢な挑戦に満ちている。描かれた作品は美しい色彩にあふれ、どこか夢のように幻想的だ。「ル・カネ時代(1922-1947年)」とも呼ばれ、ボナールの画家としての才能が十二分に開花した時期で、約300点(風景画103点、室内153点、庭24点)の作品が制作された。  

庭の女性たち
(図2)「庭の若い女性たち」,60・5×77cm,油彩,1921- 1923,1945-46に仕上げる、個人蔵