ニコラ・ド・スタール 道ならぬ恋の結末 アンティーブを歩きながら
日本では、ベッキーとゲスの不倫騒動が収まらないようだ。ついにイギリス、英紙ガーディアンも「日本の芸能界にはびこる性差別」などと報道したらしい。
ピカソは妻のほかに愛人が何人かいて、愛人同士の喧嘩を喜んで見ていたという。だからといって、「ピカソの絵を教科書に載せるな」という話は、日本でも、聞いたことがない。これはピカソが男性だからなのか、それとも、芸術の世界は、芸能界よりも、もっと自由だからなのか。
さて、この絵について考えてみよう。作者は、ロシア生まれの画家、ニコラ・ド・スタール(Nicolas de Staël、 1914年1月5日 - 1955年3月16日)。

図1 横たわる青い裸婦,油彩,アンティーブ・ピカソ美術館,112 x 74 cm,1954
私は、2014年夏、アンティーブのピカソ美術館の側のアパートに10日間滞在した。そのアパートの部屋の中で、アパート所有者のニコラ・ド・スタールの3冊の画集を見つけ、ピカソ美術館で開催されていた、スタールの展覧会を見る機会を得た。この絵は、その展覧会のポスターにも使われていた。背景の赤の色がとてもきれいで、ブルーと白が映えている。シンプルだが、エネルギーに満ちている。ピカソ美術館の白い壁にかけられた、この大きな絵は、強い印象を残した。

アンティーブ・ピカソ美術館

スタールのアトリエのある海沿いの通り
この絵を描いた翌年、スタールは自殺した。滞在したアパートにテラスがあり、少しだけ地中海が見えたが、スタールが住んだというアパートからは、一面の海が見えただろう。夏のアンティーブは本当に素敵なところだ。旧市街は花があふれ、散策するだけでも心地がいい。夏に打ち上げられる花火をスタールのアパートの前の通りから見た。彼のアパートの窓からならば、花火も見えたろう。こんないいところに住んでいて、画家としての成功も手にしてなぜ ?… それは、私にとって不可解であり続けた。最も、スタールが自殺したのは、3月で、冬には風が強く、海も荒れ狂う日もあったかもしれないが。

左の建物の2階にスタールのアトリエがあった。奥に城塞が見える。L’atelier de Nicolas de Staël (2ème étage) à Antibes © Edouard Dor
このサイトより転載https://bruelle.wordpress.com/2010/06/30/nicolas-de-stael-le-concert/

花にあふれるアンティーブ旧市街の小路,アトリエの場所から徒歩1分かからない場所
この絵を描いた 1954年当時、スタールは、結婚していて、子どももいた。1954年は、妻との間に末の息子、ギュスターブが生まれた年だ。この絵は、南仏メネルブに買ったばかりの谷を望む小さな城の中で、愛人を描いたものだとされている。
スタールの人生を見てみよう。サンクトペテルブルクにロシア貴族の子息として生まれる。1919年、ロシア革命のため、一家はロシアを離れ、ポーランドに亡命。父を1921年9月、母を1922年8月に失い、姉、妹とともに三人の孤児となる。 兄弟は、母の友人のつてで、ベルギーの上流階級の家庭に引き取られ、しっかりとした教育を受ける。養父は技師になることを望んだが、スタールは、絵画と文学に興味を持ち、ブリュッセルの王立美術学院で絵を学ぶ。画集の中の写真を見る限り、ハンサムな身長194センチの男性だ。

スタールの写真
旅が好きで、1935年から、スペイン、モロッコ、アルジェリア、イタリアなどを旅する。マラケシュでフランス人女性、ジャニーヌ・ギユーというブルターニュ地方出身の画家に出会う。彼女は夫と共に旅する最中だった。1939年には第2次大戦が勃発、スタールは 外人部隊に志願し、軍隊生活を送る。1940年、ニースでジャニーヌと再会、一緒に暮らし始める。彼女は、別居中の夫との間に息子がいた。1942年、ジャニーヌは娘、アンヌを出産。スタールは家具職人のもとで働いたり、建物のペンキ塗りをしたり、ジャニーヌも絵を売るのに努めた。生活は苦しかったが、当時のニースにはアーチストが集い、スタールも絵への刺激を受けた。
1943年9月、知人の画商を頼って、ナチス占領下のパリへ。彼女の2人の子ども4人での共同生活。貧しく不自由な暮らしだった。1944年には、カンディンスキーとともに個展を開催したが、状況は好転しなかった。そして極貧の中、ジャニーヌの病状は悪化し、1946年2月、彼女は帰らぬ人となった。ジャニーヌの離婚が成立しなかったことも関係して、スタールとジャニーヌが正式に結婚することはなかったが、現在、二人は、パリ郊外モンルージュの墓地に眠っている。
スタールは、ジャニーヌの母へ手紙を書いている。
「ジャニーヌは1946年2月27日、午前2時45分、息をひきとりました。3月4日、彼女のお気に入りの着物を着せてから、彼女の息子と私、小さなアンヌと最も大きな絵の前で、私たちは棺をとじました。墓地には雪が降っていました。私は、あなたに、私にすべてを捧げ、今日もなお私に捧げてくれている人に命を与えてくれたことに、感謝しています。」
画家はこの頃から憑かれたように制作にのめりこんでいく。2人の子供をかかえたスタールは、息子の英語の教師をしていた、フランソワ-ズと1946年5月、21歳のフランソワーズ・シャブ―トンと結婚、彼女との間に2男1女をもうける。1948年には、フランス国籍を取得。この頃からスタールの仕事に光が当り始める。
1950年代に入ると、フランス政府によって作品も買い上げられ、ニューヨーク、パリ、ロンドンでも個展を開催されるようになり、絵の注文も多く、経済状況も好転した。
亡くなるまでの10年間に 制作した油絵は1000点にのぼり、最後の2ヶ月半で90点の絵画を残している。つかんだ成功をより確かなものにするために、憑かれたように、追い立て られるように制作に打ち込んだ。
画家としてのスタールは「具象→抽象→具象」の経緯を経たと言われる。絵を描き始めた頃には、具象画を熱心に描いていた。しかし、《ジャニーヌの肖像》(1944年)を描いた時に具象に居心地の悪さと限界を感じ、具象画では描ききれないものを抽象画で描きたいと感じるようになり、抽象画を描くようになった。
1952年、妻のフランソワーズとパルク・ド・プランスというパリのスタジアムで、日没時のサッカーの試合を観戦。選手たちの動きや色に衝撃を受け、サッカーのシリーズを多数制作する。長方形を用いた描法でサッカー選手のエネルギーの一瞬を捉えている。これが具象に回帰するきっかけになった。それ以降は、そのスタイルを用いて風景や裸体などを描く。

図2 パルク・ド・プランス,油彩,200×350cm,個人蔵,1952

図3、フットボール
1953年には、妻と娘のアンヌをモデルに肖像画を制作。1944年のジャニーヌをモデルとした肖像画以来だった。

図4 アンヌの肖像,油彩,130 x 89 cm,コルマール・ Unterlinden美術館,1953
1953年11月、南仏メネブルの小さな城を買い取る。急斜面にテラスが張り出した、谷を望む建物だった。彼は、ここで、ニューヨークの個展のための絵とともに、ヌードを描いた。ジャンヌ・マチューという女性がモデルだった。彼女は、裕福な、子供もいる人妻だった。彼女は彼にインスピレーションを与え、激しい恋に落ちた。
ジャンヌを紹介したのは、シュルレアリスムのフランスの詩人、ルネ・シャール(1907年- 1988年)だった。スタールとルネ・シャールは、仲の良い友人で、共同で本を制作している。1953年8月には、愛人と妻、子どもたちとともに、スタールはイタリアを旅行した。
スタールは、1954年9月、ニース近くに住むジャンヌを追いかけるかのように、家族と完全に訣別し、アンティーブで、1955年夏にパリ、アンティーブなどで開かれる個展のための絵画制作に全速力でのめり込んだ。(2014年夏にアンティーブの城塞を見学した時、スタールが描いた、この城塞の絵の絵葉書が城塞の中の小さな土産屋に、置いていて、はっとしたものだ。)

図5 城塞,アンティーブ・,ピカソ美術館,1955

アンティーブのヴォ―バン港の向こうに城塞が見える。スタールのアトリエからも遠くに、この城塞が見え、図5は、アトリエからの景色を描いたのではないだろうか。
1955年3月5日、スタールはウェーベルンとシェーンベルクのコンサートを聞くためにパリに出る。3月14日彼は、絶筆となる大作「コンサート」に3日間、アンティーブで取り組む。極度の神経をすりへらし長いこと眠ろうとしても眠れなかった。
彼は1955年3月16日夜、アトリエのテラスから8メートル下の街路に身を投げた。享年41才。3通の手紙を残した。うち、一通は、まだ13歳でしかない娘のアンヌに宛てたものだった。友人に対する最後の手紙に彼はこう書き残した。「絵を仕上げる力がなかった」。
2014年のピカソ美術館でのスタールの展示は、亡くなる前の5年間1951年から55年の作品に絞られていた。この時期はジャンヌをモデルにし、裸婦を描いており、下絵も含め、それらの作品が展示されていた。そして、絶筆の大作「コンサート」。右手にコントラバス、左手にピアノがある未完の作品も展示されていた。やはり背景の赤がとても美しい。

図6 「コンサート」,油彩,350 x 600 cm,アンティーブ・ピカソ美術館,1955
スタールはなぜ自殺したのだろう。ピカソ美術館の学芸員は「ジャンヌに失恋したから」と説明したが、私には、まったく信じられなかった。スタールには生まれたばかりの子供も妻もいて、ジャンヌには夫と子どもがいた。
2003年出版の、スタールの孫娘マリー・ドュ・ブシェが書いた本を読んで、私は、彼女が言わんとするように、スタールの絵は、激しく、極限の集中力が必要で、今回はそれが度を越してしまったのだろうととらえようとした。
長い間貧しかっただけに、急に成功した彼は、注文が舞い込むまま、需要に応えようと頑張り過ぎたのかもしれない。最初に彼と長く過ごした女性、ジャニンヌの恩に報いきれなかったことが、彼の芸術家としての焦燥感につながったような気もした。
ニューヨークでの個展が成功し、画商ローゼンバーグから「もっと作品を制作せよ」と強いられた時、スタールは、「私を工場と思わないでください」と悲痛な声をあげたという。過度の制作による疲労と睡眠不足による痛々しい日々。芸術に対して真摯であるが故に、完璧な芸術を作りだろうとする、もがきと葛藤の帰結が、自死につながったのだろう。
ところが、Wikipediaのフランス語版を読んで、その考えを改めることになった。スタールは、死の直前、ジャンヌからの手紙をすべて集め、手紙を返しに行く。「あなたが勝った」と言いながら彼女の夫に手紙を渡した-。

裸婦の習作,1952-1953, 41,3 x 53,7 cm,パリ・ポンピドー・センター (裸婦の習作は、2014年のスタール展でたくさん展示されていた。すべてジャンヌを描いたとされる)
鮮やかで大きなスタールの絵は、ピカソ美術館の白い壁と窓の外の青い海の中で、爽やかな印象を残していた。そうして、改めて、この絵(図1)を見た。赤は、恋の激しさの赤のようにも、芸術家の血の色のようにも見えてきた。裸体の青は、山と谷の緑のようにも、海の青のようにも見えた。
暴力的でありながら静謐。赤の背景が彼の心を代弁する。彼の作品は一見、抽象画か具象画か分からない。見る者の心理状態によっても変わる独特の世界。美しいジャンヌとの出会いは、画家を頂点に導いた。スタールが、新たな自分だけの絵画世界を生み出した瞬間だったのだ。
図1-6、ニコラ・ド・スタール作
主な参考文献は写真のフランス語の本とwikipedia のNicolas de Staël(フランス語)

ピカソは妻のほかに愛人が何人かいて、愛人同士の喧嘩を喜んで見ていたという。だからといって、「ピカソの絵を教科書に載せるな」という話は、日本でも、聞いたことがない。これはピカソが男性だからなのか、それとも、芸術の世界は、芸能界よりも、もっと自由だからなのか。
さて、この絵について考えてみよう。作者は、ロシア生まれの画家、ニコラ・ド・スタール(Nicolas de Staël、 1914年1月5日 - 1955年3月16日)。

図1 横たわる青い裸婦,油彩,アンティーブ・ピカソ美術館,112 x 74 cm,1954
私は、2014年夏、アンティーブのピカソ美術館の側のアパートに10日間滞在した。そのアパートの部屋の中で、アパート所有者のニコラ・ド・スタールの3冊の画集を見つけ、ピカソ美術館で開催されていた、スタールの展覧会を見る機会を得た。この絵は、その展覧会のポスターにも使われていた。背景の赤の色がとてもきれいで、ブルーと白が映えている。シンプルだが、エネルギーに満ちている。ピカソ美術館の白い壁にかけられた、この大きな絵は、強い印象を残した。

アンティーブ・ピカソ美術館

スタールのアトリエのある海沿いの通り
この絵を描いた翌年、スタールは自殺した。滞在したアパートにテラスがあり、少しだけ地中海が見えたが、スタールが住んだというアパートからは、一面の海が見えただろう。夏のアンティーブは本当に素敵なところだ。旧市街は花があふれ、散策するだけでも心地がいい。夏に打ち上げられる花火をスタールのアパートの前の通りから見た。彼のアパートの窓からならば、花火も見えたろう。こんないいところに住んでいて、画家としての成功も手にしてなぜ ?… それは、私にとって不可解であり続けた。最も、スタールが自殺したのは、3月で、冬には風が強く、海も荒れ狂う日もあったかもしれないが。

左の建物の2階にスタールのアトリエがあった。奥に城塞が見える。L’atelier de Nicolas de Staël (2ème étage) à Antibes © Edouard Dor
このサイトより転載https://bruelle.wordpress.com/2010/06/30/nicolas-de-stael-le-concert/

花にあふれるアンティーブ旧市街の小路,アトリエの場所から徒歩1分かからない場所
この絵を描いた 1954年当時、スタールは、結婚していて、子どももいた。1954年は、妻との間に末の息子、ギュスターブが生まれた年だ。この絵は、南仏メネルブに買ったばかりの谷を望む小さな城の中で、愛人を描いたものだとされている。
スタールの人生を見てみよう。サンクトペテルブルクにロシア貴族の子息として生まれる。1919年、ロシア革命のため、一家はロシアを離れ、ポーランドに亡命。父を1921年9月、母を1922年8月に失い、姉、妹とともに三人の孤児となる。 兄弟は、母の友人のつてで、ベルギーの上流階級の家庭に引き取られ、しっかりとした教育を受ける。養父は技師になることを望んだが、スタールは、絵画と文学に興味を持ち、ブリュッセルの王立美術学院で絵を学ぶ。画集の中の写真を見る限り、ハンサムな身長194センチの男性だ。

スタールの写真
旅が好きで、1935年から、スペイン、モロッコ、アルジェリア、イタリアなどを旅する。マラケシュでフランス人女性、ジャニーヌ・ギユーというブルターニュ地方出身の画家に出会う。彼女は夫と共に旅する最中だった。1939年には第2次大戦が勃発、スタールは 外人部隊に志願し、軍隊生活を送る。1940年、ニースでジャニーヌと再会、一緒に暮らし始める。彼女は、別居中の夫との間に息子がいた。1942年、ジャニーヌは娘、アンヌを出産。スタールは家具職人のもとで働いたり、建物のペンキ塗りをしたり、ジャニーヌも絵を売るのに努めた。生活は苦しかったが、当時のニースにはアーチストが集い、スタールも絵への刺激を受けた。
1943年9月、知人の画商を頼って、ナチス占領下のパリへ。彼女の2人の子ども4人での共同生活。貧しく不自由な暮らしだった。1944年には、カンディンスキーとともに個展を開催したが、状況は好転しなかった。そして極貧の中、ジャニーヌの病状は悪化し、1946年2月、彼女は帰らぬ人となった。ジャニーヌの離婚が成立しなかったことも関係して、スタールとジャニーヌが正式に結婚することはなかったが、現在、二人は、パリ郊外モンルージュの墓地に眠っている。
スタールは、ジャニーヌの母へ手紙を書いている。
「ジャニーヌは1946年2月27日、午前2時45分、息をひきとりました。3月4日、彼女のお気に入りの着物を着せてから、彼女の息子と私、小さなアンヌと最も大きな絵の前で、私たちは棺をとじました。墓地には雪が降っていました。私は、あなたに、私にすべてを捧げ、今日もなお私に捧げてくれている人に命を与えてくれたことに、感謝しています。」
画家はこの頃から憑かれたように制作にのめりこんでいく。2人の子供をかかえたスタールは、息子の英語の教師をしていた、フランソワ-ズと1946年5月、21歳のフランソワーズ・シャブ―トンと結婚、彼女との間に2男1女をもうける。1948年には、フランス国籍を取得。この頃からスタールの仕事に光が当り始める。
1950年代に入ると、フランス政府によって作品も買い上げられ、ニューヨーク、パリ、ロンドンでも個展を開催されるようになり、絵の注文も多く、経済状況も好転した。
亡くなるまでの10年間に 制作した油絵は1000点にのぼり、最後の2ヶ月半で90点の絵画を残している。つかんだ成功をより確かなものにするために、憑かれたように、追い立て られるように制作に打ち込んだ。
画家としてのスタールは「具象→抽象→具象」の経緯を経たと言われる。絵を描き始めた頃には、具象画を熱心に描いていた。しかし、《ジャニーヌの肖像》(1944年)を描いた時に具象に居心地の悪さと限界を感じ、具象画では描ききれないものを抽象画で描きたいと感じるようになり、抽象画を描くようになった。
1952年、妻のフランソワーズとパルク・ド・プランスというパリのスタジアムで、日没時のサッカーの試合を観戦。選手たちの動きや色に衝撃を受け、サッカーのシリーズを多数制作する。長方形を用いた描法でサッカー選手のエネルギーの一瞬を捉えている。これが具象に回帰するきっかけになった。それ以降は、そのスタイルを用いて風景や裸体などを描く。

図2 パルク・ド・プランス,油彩,200×350cm,個人蔵,1952

図3、フットボール
1953年には、妻と娘のアンヌをモデルに肖像画を制作。1944年のジャニーヌをモデルとした肖像画以来だった。

図4 アンヌの肖像,油彩,130 x 89 cm,コルマール・ Unterlinden美術館,1953
1953年11月、南仏メネブルの小さな城を買い取る。急斜面にテラスが張り出した、谷を望む建物だった。彼は、ここで、ニューヨークの個展のための絵とともに、ヌードを描いた。ジャンヌ・マチューという女性がモデルだった。彼女は、裕福な、子供もいる人妻だった。彼女は彼にインスピレーションを与え、激しい恋に落ちた。
ジャンヌを紹介したのは、シュルレアリスムのフランスの詩人、ルネ・シャール(1907年- 1988年)だった。スタールとルネ・シャールは、仲の良い友人で、共同で本を制作している。1953年8月には、愛人と妻、子どもたちとともに、スタールはイタリアを旅行した。
スタールは、1954年9月、ニース近くに住むジャンヌを追いかけるかのように、家族と完全に訣別し、アンティーブで、1955年夏にパリ、アンティーブなどで開かれる個展のための絵画制作に全速力でのめり込んだ。(2014年夏にアンティーブの城塞を見学した時、スタールが描いた、この城塞の絵の絵葉書が城塞の中の小さな土産屋に、置いていて、はっとしたものだ。)

図5 城塞,アンティーブ・,ピカソ美術館,1955

アンティーブのヴォ―バン港の向こうに城塞が見える。スタールのアトリエからも遠くに、この城塞が見え、図5は、アトリエからの景色を描いたのではないだろうか。
1955年3月5日、スタールはウェーベルンとシェーンベルクのコンサートを聞くためにパリに出る。3月14日彼は、絶筆となる大作「コンサート」に3日間、アンティーブで取り組む。極度の神経をすりへらし長いこと眠ろうとしても眠れなかった。
彼は1955年3月16日夜、アトリエのテラスから8メートル下の街路に身を投げた。享年41才。3通の手紙を残した。うち、一通は、まだ13歳でしかない娘のアンヌに宛てたものだった。友人に対する最後の手紙に彼はこう書き残した。「絵を仕上げる力がなかった」。
2014年のピカソ美術館でのスタールの展示は、亡くなる前の5年間1951年から55年の作品に絞られていた。この時期はジャンヌをモデルにし、裸婦を描いており、下絵も含め、それらの作品が展示されていた。そして、絶筆の大作「コンサート」。右手にコントラバス、左手にピアノがある未完の作品も展示されていた。やはり背景の赤がとても美しい。

図6 「コンサート」,油彩,350 x 600 cm,アンティーブ・ピカソ美術館,1955
スタールはなぜ自殺したのだろう。ピカソ美術館の学芸員は「ジャンヌに失恋したから」と説明したが、私には、まったく信じられなかった。スタールには生まれたばかりの子供も妻もいて、ジャンヌには夫と子どもがいた。
2003年出版の、スタールの孫娘マリー・ドュ・ブシェが書いた本を読んで、私は、彼女が言わんとするように、スタールの絵は、激しく、極限の集中力が必要で、今回はそれが度を越してしまったのだろうととらえようとした。
長い間貧しかっただけに、急に成功した彼は、注文が舞い込むまま、需要に応えようと頑張り過ぎたのかもしれない。最初に彼と長く過ごした女性、ジャニンヌの恩に報いきれなかったことが、彼の芸術家としての焦燥感につながったような気もした。
ニューヨークでの個展が成功し、画商ローゼンバーグから「もっと作品を制作せよ」と強いられた時、スタールは、「私を工場と思わないでください」と悲痛な声をあげたという。過度の制作による疲労と睡眠不足による痛々しい日々。芸術に対して真摯であるが故に、完璧な芸術を作りだろうとする、もがきと葛藤の帰結が、自死につながったのだろう。
ところが、Wikipediaのフランス語版を読んで、その考えを改めることになった。スタールは、死の直前、ジャンヌからの手紙をすべて集め、手紙を返しに行く。「あなたが勝った」と言いながら彼女の夫に手紙を渡した-。

裸婦の習作,1952-1953, 41,3 x 53,7 cm,パリ・ポンピドー・センター (裸婦の習作は、2014年のスタール展でたくさん展示されていた。すべてジャンヌを描いたとされる)
鮮やかで大きなスタールの絵は、ピカソ美術館の白い壁と窓の外の青い海の中で、爽やかな印象を残していた。そうして、改めて、この絵(図1)を見た。赤は、恋の激しさの赤のようにも、芸術家の血の色のようにも見えてきた。裸体の青は、山と谷の緑のようにも、海の青のようにも見えた。
暴力的でありながら静謐。赤の背景が彼の心を代弁する。彼の作品は一見、抽象画か具象画か分からない。見る者の心理状態によっても変わる独特の世界。美しいジャンヌとの出会いは、画家を頂点に導いた。スタールが、新たな自分だけの絵画世界を生み出した瞬間だったのだ。
図1-6、ニコラ・ド・スタール作
主な参考文献は写真のフランス語の本とwikipedia のNicolas de Staël(フランス語)

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コメント
ありがとうございました
とても詳しく解説してくださり、スタールのことがよく分かりました。ありがとうございました。また違った見方でスタールの絵を見ることが出来そうです(^^)
2022-05-22 04:54 はるか URL 編集